手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

根本問題の解決は仏法に説かれてある

 どれだけ花の名人と言われていても、死んでお骨になってしまったらそれまでです。お骨になってもまだお花を生けているということはないでしょう。この世の命、娑婆世界のことは間もなく終わりますね。学問や企業の道やお花やお茶の道をどんなに究めたって、それによってその人が仏になるということはありません。
 ところが、念仏の問題というのは、われわれがこの世に生きているあいだだけの話ではありません。永遠の中にある私という者の運命の問題ですから、そこをお間違えになったら駄目です。仏法を聴くのはこの世だけのためではないんです。「私はこの世をいかに楽しく明るく豊かに生きるかということのために仏法を聴いています」、もしこういうふうに思って来られたら、これは根本から考え直さなくてはいけないと思いますね。そうではなくて、いったいこの自分は何のためにこの世に生まれてきたのかという根本的な問題、永遠の謎を解かなければいけないかというと、その謎が謎である間は私たちはとうてい安心して生き、安心して死ねないからです。
 謎を解くといっても別に自分の頭で考えて解くんではなくて、謎はとっくに仏様によって説かれていたということに目覚めるということです。そうしたら死んだって大丈夫ですという平和な心境が得られます。いつ死んだって如来様の力でお浄土に生まれて、仏様にしていただくことに決まっている。私はそのことに何の心配もいたしておりません、という心を命ある間にいただいて人生を前向きに生きてゆく。これが仏法であります。これ以外に別に仏法はありません。仏法はただそれだけのことです。
【『歎異抄』第七条・第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P4、P5より】



いま・ここで・私が生かされていることの謎は、すでにお釈迦さまによって説かれています。
その謎に目覚めるということ、つまり、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くことが非常に大事になってきます。
いま・ここで・わたしが生きているという根本問題は仏法に説かれてある、それだけ分かっただけでも頼もしいですね。阿弥陀さまをはじめ、お釈迦さま、歴代の先人方の存在なくして、いまの私はありません。
「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ(道綽禅師)」とあります。
仏法ひろまれ 響け 届け・・・・・・・
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



謎解き(イメージ)