手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

最後に届いた手紙 (池田晶子)

池田さんから最後にとどいた手紙は、逝去の四ヶ月ほど前の2006年10月3日付のものである。池田さんの思考の核心部に生まれた一つの変化を語っているように思われるので、少し長いが全文を記しておこう。


拝啓
 連載コラムで御作を使わせて頂きましたので御笑覧のほどを。
『法語録』もありがとうございました。あの対談の後でしたので、かなり理解できるようになりました。頭でっかちで本当にしようがないとつくづく思います。
〝普通〟の人々に語るのには、先生の方が数段うわ手ですね。編集者には言っていないのですが、私は相変わらず厄介な病気を抱えておりまして、日々、剣ヶ峰を歩いております。が、それは本来の人間の在りようなのだから、ちょうどいい修行だと腹をくくっております。
 ひとつ気がついたのは、例の〝いのちの根性がない〟ということ、生きようとするのは執着なのだと私はずっと思っていたのですが、どうもそうではないようですね。人が生きようとするのは意志、生命本来の意志として肯定さるべきことのようなのです。私は執着がないから成仏できると思っていたのですが、生命の本来をきちんと全うしないと、ひょっとしたらこれは成仏できないかもしれない。そう気がついてから、前向きに闘病しようという気持になりました。これまでは生きても死んでもどっちでもよかったので、だからいつまでも病気が治らなかったのでしょう。すべての人間は必ず死ぬとが分かっているので平常心は変りません。諦めなければならないことはあるわけではないので、諦めるということもありません。だから、ここで、一歩、生きるということを素直に意志すればそれでいいのでしょう。
 こんな当たり前のことに気がつくために、何という遠廻りをしなければならないものか、本当にバカですね。編集者には内緒にしておいて下さい。おそらく余人には理解しがたいプロセスですので。
 本の仕上がりが楽しみです。
 折を見てお会いできれば嬉しいです。
 お元気で。                          敬具

   10月3日                       池田 晶子
 大峯 顕 先生

  


 生きたいということは自分の執着だと思って来たのは思いちがいであって、本当は生命そのものの意志だったことに気づいたという池田さんの言葉は、私を大いに喜ばせた。生きたいということは、個人のたんなる主観的願望などではない。この生命そのものの願いに逆らえる存在は一つもない。明るい孤独な思惟の中で池田晶子の長い旋回はついにその最終的な局面に入っていたに違いない。「生きること死ぬことは他力による」。彼女が連載する「週刊新潮」にこの言葉を見つけたのは、それから間もない頃だった。
 池田さんが亡くなった2月23日の夜、私は何も知らず東京にいた。強い大風が吹く夜であった。逝去のことや病床の様子などについては、3月の初めになって、九州の旅先にあった私にかかって来た夫君の電話で聞くことが出来た。待ちかねていた対談『君自身に還れ』は、病床にやっと間に合って彼女を喜ばせたこと、酸素吸入をしながら、最後まで書きつづけていたことなど。
 九州の空は鶴が北国へ帰ってゆく晴天が毎日つづいていた。池田さんを訃む一句を授かろうとして青空を仰いでいると、その引鶴の群中にふと池田晶子の姿が混じっているような気がする。
  

今朝引きし鶴にまじりて行きたるか



三田文学 No.116 「回想の池田晶子」大峯 顕  P152〜P154より】 



先日の法話(大峯 顕 師:願教寺)で紹介されていました。
コメントは差し控えます。
下記から、注文できます。関心がある方は是非どうぞ〜



三田文学
http://www.mitabungaku.jp/backnumber116.html


池田晶子
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/searchdiary?word=%C3%D3%C5%C4%BE%BD%BB%D2&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail