手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

本当の命のよろこび

人間にとって死ぬことはいったい何であり、生きているということはどういうことであるかは、死は外から見ているだけじゃ決してわかりません。いくら生きていると言っても死んだみたいな人もいます。毎日毎日食べては寝ることのくり返しで、目が覚めているあいだは、腹を立てたり、妬んだり、愚痴を言う。そういうことばかりやっている人生は本当に生きているとは言えないのではないでしょうか。本当に生きているということは、どこか命の喜びというものを感じることができることだと思います。しょっちゅう感じることは難しいにしても、時にそれを感じる。どんな有り難いお念仏の人でも、煩悩の雲が湧いてくるとよろこびは隠れます。煩悩に覆われて心は暗くなったり、寂しくなったりします。けれども、今日は雨の日だから太陽がどこかに消えてしまったということはないように、煩悩の雲があってもご信心の天はいつも晴れています。必ず助けるという如来様のご本願のまことに間違いはない。私が有り難がろうが、有り難かるまいが、如来様に助けていただくことに何の間違いもないということを、自分のこの命の上に感じさせていただく、そこに本当の命のよろこびがあると思います。
【よきひとの仰せ『歎異抄』第二条 大峯 顕 百華苑 P56〜P57より】



本当の命のよろこびは、
「如来様に助けていただくことに何の間違いもないということを、自分のこの命の上に感じさせていただく」こと以外にありません。
つまり、
「わたしが、いま、ここで、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせていただく」こと以外にない、ということです。
なにかの機会に、ふと、「私のいのち」の喜びを感じることができる人生は素晴らしいですね。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



雲の切れ間から差す光