手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

「いま生きている」 という事実

遺言状は別にして、日付の確認できる親鸞聖人の最期の手紙は、文応元年(1260)11月13日付け、常陸(ひたち)の乗信房(じょうしんぼう)宛ての書簡です。88歳の冬でした。 なによりも、去年(こぞ)・今年、老若男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらん…

信疑決判 (本願を疑うか、信じるかによって決定する)

念仏は、誰が、いつ、どのような状態で称えていようと、その功徳は同じであるということは、一声一声の南無阿弥陀仏が無上の功徳を持っているからで、それは称えるものが積み重ねていく有上(有限)な徳ではなくて、本願の名号に無上(無限)の徳がこめられ…

阿弥陀仏の実在について

【質問】 阿弥陀仏の実在について聞かせて下さい 【回答】 釈尊の実在は分かるが、弥陀の実在が認められないということを申される方があります。 釈尊の実在を認めながら、どうして弥陀の実在が認められないのでしょうか。その認めている釈尊の実在は、歴史…

私のはからい

善い悪いを思ったりいったりしている限り、本願を向こうに置いているのであろう。本願に遇うと、『自然法爾章』に「よからんともあしからんともおもわぬを自然とはもうすなり」とあるように、善い悪いというこちらの思いが本願力にとらわれてしまったという…

人間の価値判断を捨てた念仏

親鸞のいう念仏は、「○○のため」という手段の念仏ではない。そのこころを受け止めた本願寺八代目の蓮如は、こう語っている。 他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人(親鸞)の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。 (『蓮…

真実は掴むものではない

「ただ念仏して・・・・・・」と明解に答が出されているのに、ここで終っていいはずなのに、何故「念仏はまことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん・・・・・・」と、言い添えられたのか。そこには聖人が、一言一句ききもらすまいときき入れらる門弟たち…