2011-07-01から1ヶ月間の記事一覧
「あんたは罪が深いから、弥陀に救われにゃならんのです!」と、こう言うてんね。 つらい目にあわせること。 つらい目にあわせなくても、弥陀のお慈悲を告げ続けていけば、その聞くお方のひとりひとりの中で、自然にうまくなるように仏智の不思議にてあるな…
称名は、となえているという自分の行為に目をつけてはなりません。 もし、私の働きとして念仏を捉えるならば、私のような煩悩だらけの者がとなえたぐらいで清らかなさとりの世界に生まれることなどできるはずがないとしかいえません。 あるいはまた澄みきっ…
口からでてくださる念仏はどういうものでございますか、と申しますと 「助けるぞよ!」のお心でございます。 それは、わたくしの口からでるお念仏も、人さまの口からでてくださるお念仏も、お経の上に説いてございますお念仏も、法界外に響いてくださるお念…
ある日ある男が庄松に会うために遠隔の地を旅立ちました。 当時は鉄道も飛行機もなかったので、彼は数百マイル歩かねばなりませんでした。 ついに彼は庄松の住んでいる土地に到着しました。彼は庄松がせっせと米を搗いているのを見ました。庄松は誰かに人夫…
※勝覚寺(香川県)
阿弥陀さまは、この今も「必ず救いますよ!」と呼んでおられます。 だから、素直に「どうもありがとうございます!」でよいのです。
仏を信じるということは、「おまえを必ず救う」と言っている仏の声が聞こえたということです。聞こえたら助かる。聞こえたことが助かったことです。これはけっして比喩ではありません。仏さまがわれわれを呼んでいるということはけっして比喩ではない。 親鸞…
こうでなければとか、ああでなければと言っているうちは、救われてはいないのです。 地獄などまっぴらごめんだ、どうしても極楽へ往かねばならない、と思っているひとはまず救われない。 蓮如上人も同じことを指摘しています。 「極楽はたのしむと聞て参らん…
久々に聴聞させて頂きました(安藤龍昭 師 三重県・安養寺)。 善導大師・無常の偈についてのお話でした。 阿弥陀さまはひとりひとりに寄り添っておられること、「信心」のことなど非常に大事なところをお話しくださいました。 結局、最後は、仏法しか残らな…
※22日(金) 築地本願寺(聞法ホール)にて聴聞させて頂きました (常例布教 安藤龍昭 師 三重県・安養寺)
浄土真宗の教えというものが、人を打たなくなるのは、そのお説教の言葉が記号になる時です。南無阿弥陀仏とか、極楽、お浄土とか往生とかいっているけれども、そういう言葉がみんな記号になっている時です。そんな記号で人は救われはしない。 罪悪深重の凡夫…
自分で生きているようにしか思えませんが 実は、阿弥陀さまに生かされているのです
「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」(『教行信証』信文類『註釈版聖典』二五一頁)というのは、教学上の細かい議論を知っているということではないのです。 たとえば、テレビの画面はスイッチを入れただけですぐに映りますが、内部はびっくりするほ…
菩提心がなければ仏になれません。それなら一体どうすればよいのか。 この根源的な問いを、法然聖人や親鸞聖人は必死に問われたのです。 そうしてついに、その菩提心のない私を憐れんで、如来さまが菩提心をくださるのだという答えを得られたのです。 それは…
信心とは、わたしの方から「どうぞ助けてください」と祈願することではない。 「われにまかせよ、必ずたすける」とおおせくださる阿弥陀仏の本願のみことばを聞いて、 このとりえなき身を如来におまかせすることです。 蓮如上人が「弥陀をたのめ」といわれた…
仏法を聞くときの心得として、このようなことをいわれています。 この私は、いま死んでどこへ行くのか?このように思ってみなさい! 今晩、死んで極楽に参ると思われる人は少ないでしょう。 ここが、信を得たか得ぬかの分かれ目です。 信を得た人は、いま死…
いま、炎天下に身を置いている人が発する言葉は 「今日は、本当に暑いなあ〜」とか・・・ 「この暑さ、どうにかならないの〜」とか・・・です。 いま、炎天下に身を置いている人が 「今日の天気は晴れですね!」とか 「今日は快晴ですね?」とわざわざ言うこ…
饅頭を口に入れたら、甘いか甘くないかの説明は要りません、甘いということがすぐわかる。弥陀の心光が私を包んでくださるということは、ご信心を得ないことにはわからないが、得たら説明の必要はない。 「冷暖自知」という言葉がそうです。 今日は寒いか暖…