手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2016-01-01から1年間の記事一覧

聴聞   大阪編(津村別院)

大阪ひとり旅に行って来ました(9/18〜9/21)。 大学時代の友人Tと25年ぶりの再会および神戸観光(会社の友人ガイド付)そして聴聞(本願寺津村別院)が主な目的でした。 阪神、金本監督プロデュースの居酒屋をはじめ食べまくりました。この価格でこのボリ…

阿弥陀仏の本願

はじめは人間を根拠にして法を語る。これが釈尊を出発とした仏教の必然性である。釈尊を出発としたということは、人間を出発としたということである。人間が人間の力で人間をこえることができるという確信、人間に立った法、その法に立った教団は特定の、選…

人身受け難し

この身体であっても、両親という他なる生体から生み出されたものである。両親もそれぞれ2人ずつの両親から生まれたのである。自分にとって祖母と祖父は4人いるはずである。その祖父と祖母にしても、それぞれ2人ずつの両親から生まれてくるわけだから、8…

「健康で長生き」 の先は?

生活習慣病(高血圧や糖尿病など)の検診で「脂質異常」や「糖尿病」の診断基準が一段と厳しくなって、異常を指摘されて再検査や相談に来られる方が最近は多いのです。 病や健康をどう受け取るかは、その人の病気観・人生観に関わる課題です。 相談に来られ…

ドーナツ人間

ある法話の中で、「ドーナツ人間」という言葉を聞いたことがあります。 中心部が何もなくて、輪を作っている。つまり、内部が空っぽで、外側にいろいろなものを集めているさまをドーナツ人間と揶揄しているのです。 一般的に、人間の意識は外界の事柄を分別…

時間へのとらわれからの解放

国立長寿医療研究センター総長だった大島伸一郎氏のインタビュー記事に「高齢者医療では客観的な事実や統計に基づいた医療の確立はもちろんですが、それ以上に人間的な側面からのアプローチが求められます。人生ではっきりしているのは『自分の意思で生まれ…

忘れもの

三木郡田中村森山勝次郎と富田村およしと同道にて、高松の別院に参詣し途中にて、庄松いわく、さあ、しもうた忘れものをいたした。勝次郎いわく、何を忘れた。庄松いわく、信心をわすれた、と申す言葉とともに、南無阿弥陀仏と申し候。 【妙好人 庄松ありの…

何のための健康で長生きなのか

「健康で長生き」これを医療は目的にしているのですが、何のための健康なのか、何のための長生きなのか。医療からはどういうかと言ったら、「それは、プライベートのことなので、医師が関わることではありません。私たちは、健康で長生きを支えるだけです。…

仏さまの心

別な言い方をすれば、信心の世界には「私」はないということです。蓮如上人は、「仏法は無我にて候」と言っておられます。無我は無我無想の心境ではありません。心を空っぽにするなどということはできませんが、ひるがえすことはできます。阿弥陀さまは第十…

命がある間に (このいま)

人間にはどうしても考えなければならないことがたった一つあるわけです。命がある間に、そのことに思いを致さなければなりません。私を無視したとか、悪口を言ったとか、どうでもよいことを考えていることが多いのではないでしょうか。如来さまに救われてい…

およびごえ

宗祖(親鸞聖人)の示されるお救いは、頂く信であります。そしてその頂く信とは、名号受領のことであります。すなわち、私の救いのはたらきである名号が与えられるのです。しかも名号を頂くということは、名号のいわれを聞き、名号の妙用が私の心の上に活現…

先入観

意識を支配する先入観 急な勾配の坂道で、重い荷車を引っぱり上げようとしている人がいる。もう一人がうしろからその荷車を押し上げるのを手伝っている。前で車を引いている人に、「うしろで車を押しているのは息子さんですか」ときくと、「そうです」と答え…

阿弥陀さまのひとりばたらき

真実の宗教は、絶対者が相対のものを融化(ゆうか)するところにあります。まことの救いは、絶対者の独りばたらきであって、相対者である私共のはからいや、力はすこしもいらないのです。またあってはなりません。絶対の救いは、絶対から相対へはたらきかけ…

「人生の目的」といわれても・・・・・・

浄土真宗は本願力回向の教えといわれます。 方向は、阿弥陀さまから私へであって、私から阿弥陀さまへ(向かう)という教えではありません。 つまり、「人生の目的」というフレーズは、本願力回向の教えに反発していると言わざるを得ません。 「人生の目的」…

阿弥陀さまは、そばに寄り添っておられる

浄土真宗を語る(説く)上で 「人生の目的」とか「救いの道程」というようなフレーズがでた時点でアウト!です。 なぜならば、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきは、すでに、ひとりひとりに届いているからです。この今、私たちは、そのはたらきの中で生か…

有り難い(仏法に出遇えていること)

ある時、お釈迦さまは、大地の砂を手にすくい、弟子たちに質問されました。 「この手のひらの砂の数と大地の砂の数は、どちらが多いでしょう」 弟子は答えました。 「もちろん大地の砂の方が多いです」 するとお釈迦さまは、静かにうなずかれて、 「その通り…

念仏者 棟方志功

富山では、大きないただきものを致しました。それは「南無阿弥陀仏」でありました。 衣食住でも、でしたが、それよりもさらに大きないただきものであったのです。 【板極道 棟方志功 P100より】 個人的に、板画家・棟方志功もそうですが、それ以上に念仏…

弥陀のご廻向

今度の往生のことは、如来が私に先だって、どうぞ助けてやりたいと願いをもって、私に向かっていて下さるのです。その御願いに向こうて、どうぞこのようにしてもらいたいと願う筈はない。 わが身の迷いを出る道も知らず、流転(るてん)の苦しみも知らず、迷…

ご 縁  (思い出の旅:山口市)

今回は、いつもの趣旨とは違います。 手品師の人生史上、思い出に残る2頁を過ごしましたので自分自身の振り返りのため投稿します(笑)。 年がばれますが、25年ぶりに山口市に行きました。 大学時代、バドミントン(体育会)を4年間やり遂げた仲間に会うた…

安心(あんじん)

私たちは、申すまでもなく、命終わればお浄土に参らせていただくのですが、そのお浄土参りをさせていただくには、他力の信心を決定せねばなりません。 他力の信心とは、お浄土参りに安心することではなくて、助けねばおかぬとある弥陀のご親切に安心すること…

阿弥陀さまに ただおまかせ

私共の信心は、浄土に望めて起すのではありません。本願に望めて安堵するのです。私共はただ本願に乗托するばかりです。往生は仏の方より、願力の不思議として、決定せしめて下さるのです。たとえば、京都から東京へ行く場合に、東京へ早く行きたいと思うい…

「いま生きている」 という事実

遺言状は別にして、日付の確認できる親鸞聖人の最期の手紙は、文応元年(1260)11月13日付け、常陸(ひたち)の乗信房(じょうしんぼう)宛ての書簡です。88歳の冬でした。 なによりも、去年(こぞ)・今年、老若男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらん…

信疑決判 (本願を疑うか、信じるかによって決定する)

念仏は、誰が、いつ、どのような状態で称えていようと、その功徳は同じであるということは、一声一声の南無阿弥陀仏が無上の功徳を持っているからで、それは称えるものが積み重ねていく有上(有限)な徳ではなくて、本願の名号に無上(無限)の徳がこめられ…

阿弥陀仏の実在について

【質問】 阿弥陀仏の実在について聞かせて下さい 【回答】 釈尊の実在は分かるが、弥陀の実在が認められないということを申される方があります。 釈尊の実在を認めながら、どうして弥陀の実在が認められないのでしょうか。その認めている釈尊の実在は、歴史…

私のはからい

善い悪いを思ったりいったりしている限り、本願を向こうに置いているのであろう。本願に遇うと、『自然法爾章』に「よからんともあしからんともおもわぬを自然とはもうすなり」とあるように、善い悪いというこちらの思いが本願力にとらわれてしまったという…

人間の価値判断を捨てた念仏

親鸞のいう念仏は、「○○のため」という手段の念仏ではない。そのこころを受け止めた本願寺八代目の蓮如は、こう語っている。 他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人(親鸞)の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。 (『蓮…

真実は掴むものではない

「ただ念仏して・・・・・・」と明解に答が出されているのに、ここで終っていいはずなのに、何故「念仏はまことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん・・・・・・」と、言い添えられたのか。そこには聖人が、一言一句ききもらすまいときき入れらる門弟たち…

浄土真宗の信心

真宗の信心は、お浄土へ参らしていただけるほどの広大なものであるから、しっかり聞いて、まちがいないという決定の信のえられるまで聞くのであるといえば、無茶苦茶になる。 とても広大な信であるから、真剣に聞くのである、たとえ聞いても一遍には出来ない…

阿弥陀さまに ただおまかせ

何事においても土台(基礎)が大事であることはいうまでもありません。 土台(基礎)がしっかりしていない家には安心して住むことはできません。 南無阿弥陀仏という土台の上で生かされていると気付かされた生活には安心があります。 寿命尽きれば浄土参り!…

南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている

こういうことは清沢満之(きよざわまんし)も言っています。たとえば自分が原稿をすらすら書いているのは、阿弥陀さまが「書け」とおっしゃっているからだ。途中で書けなく止まってしまったら、それは阿弥陀さまが「少し休め」とおっしゃっているからだ。決…