手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

人間の価値判断を捨てた念仏

 親鸞のいう念仏は、「○○のため」という手段の念仏ではない。そのこころを受け止めた本願寺八代目の蓮如は、こう語っている。


他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人(親鸞)の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。
(『蓮如上人御一代聞書』【註釈版】1287頁【真宗聖典】887頁)


 ここには、親鸞のいう念仏が、手段の念仏ではないということが言明されている。親鸞が「ただ念仏」と語る念仏は、人間の価値判断を捨てた念仏であるといえる。つまり、人間が思い描いた「理想郷として浄土」や、人間が思い描いた「超越者としての如来」を完全に超越したものが念仏だ、というのである。それは人間の観念を内部に捉えられた宗教を超越したことであり、人間の内部から「真実」を解放したということでもある。
【新しい親鸞(下) 武田定光  響流選書より】


【原文】
蓮如上人仰せられ候ふ。 信のうへは、 たふとく思ひて申す念仏も、 またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。 他宗には親のため、 またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。 聖人 (親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。 そのうへの称名は、 なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ云々。
【蓮如上人御一代聞書 179 より】


【現代語 訳】
蓮如上人は、「信心をいただいた上は、尊く思って称える念仏も、また、ふと称える念仏も、ともに仏恩報謝になるのである。他宗では、亡き親の追善供養(※)のため、あるいはまた、あれのためこれのためなどといって、念仏をさまざまに使っている。けれども、親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせするのが念仏なのである。弥陀を信じた上で称える念仏は、どのようであれ、すべて仏恩報謝になるのである」と仰せになりました。
追善供養(※)
人の死後、死者に縁のある生存者が、その死者のためにあとから追って善事を行うこと。
【蓮如上人御一代聞書 (現代語) 本願寺 P114より】




ここでもありますように、
親鸞聖人がいわれる念仏は「手段の念仏」ではありません。
『弥陀をたのむが念仏なり』と、蓮如上人は教えて下さいます。
つまり、親鸞聖人のいう念仏は報恩感謝のお念仏であり、
もっと平たくいうならば、「ありがとうございます!」のお念仏です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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