手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2016-01-01から1年間の記事一覧

仙突和尚の話

仙突和尚が臨終のときに、お弟子方が遺言を求めた。そうしたら仙突和尚が「死にとうない」と書いたというのです。弟子たちは、遺言が死にとうないでは困るので、もう一度遺言を求めた。すると仙突和尚が、それならばと言ってそのうえに「ほんまに、ほんまに…

発想の転換

『歎異抄』には次のようにあります。 善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりた…

自信教人信

「自信教人信」は、「自ら信じ人を教えて信ぜしむ」(『真宗聖典』247頁)と読みます。親鸞聖人の妻であった恵信尼公も書簡の中で「人に教えて・・・」と読み下しておられますが、「教」の字は、本来漢文では助辞として「〜をして・・・せしむ」と読み下…

浄土真宗は 「信じる教え」 or 「聞く教え」

浄土真宗は、「信じなさい」という教えではないのです。「聞きなさい」という教えです。だいたい、「信じてます」というのは、「疑っている」のです。疑いや、不安が起こってくると、私たちは「信じてます」と言うのです。本当に信じている者は、「信じてま…

確かなもの

本当に確かなものが何処にあるのか、『歎異抄』の後序にある親鸞聖人のお言葉には、 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたは ごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします (『註釈版』853頁 『真宗聖…

念仏は仏の呼び声

「南無阿弥陀仏」と称えることは、もともと「この世界に充ち満ちる限りない光と命のはたらきにおまかせします」という意となり、自分自身の生きる方向性を表す言葉なのです。 ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼…

ギャップ

阿弥陀さまからみた私 私からみた私 そこには大きなギャップがあります。 (わたしが)そのギャップに気付かされると 南無阿弥陀仏とお念仏がこぼれます。 おかげさまで 今日も なむあみだぶつ Arrows in different directions

善人さま

自分の力でなんとかなるさ、という人は 阿弥陀さまからみれば、善人さま、です。 せいぜい頑張ってください〜

生かされている命

人生、自分の思い通りにならない ましてや、死にたくないのに死んで逝かなければならない現実があります。 そこだけをみましても、 わたしは、生かされて生きている、ということが分かります。 今日も 生かされて 南無阿弥陀仏

悪人正機説 (親鸞思想 最大の逆説)

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、 「往生なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。 (善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往…

念仏の一本道

教師として歩み始めた私は、生徒とも心が通わず、重苦しい日々を生きていました。私は人として誠実に生きることを一番大切にしていました。それが真実に生きることだと思っていたからです。それは間違いをおかした自分を責めることでもありました。人を裏切…

これから仏教を学ぼうとしている皆さんへ

宗教教育が皆無と言っていい現代の日本社会では、宗教、信仰という事柄が、正しく理解されないまま、ただ風習化しているように感じます。宗教教育とは、一宗、一派の勧誘でも、概要説明でもないものです。宗教機能のメリット、デメリットを正確に教えること…

他力とは

Q: 浄土真宗でいう他力とは、努力を否定しているのですか? 親鸞聖人は、私たちの行為を決して否定しているわけではありません。むしろ親鸞聖人は、阿弥陀如来が「どんなときでもあなたのそばにいるから、精一杯生きなさい」と励まし、支えてくださる「南無…

挨拶の大切さ

皆さんは、挨拶が正しくできていますか?「おはようございます」「さようなら」、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」、このような挨拶がきちんとできると、気持ちのいいものです。 挨拶という言葉は、実はもともと仏教用語なのです。挨拶の…

教化

教化というけれど、民衆に宗教心を与えるのではなくて開くのです。民衆は宗教心をもっておるんです。民衆自身がもう本願のなかにおるんです。だからそれを開くといっても、こちらの研究が開きはせんのです。こちらがこういう感銘をうけましたということが開…

仏さまのメッセージをそのまま聞く

聞くという宗教体験だといっても、なにか摩訶不思議な声が空中から聞こえてくるのではありません。具体的には仏さまのメッセージを取り次いで下さる布教使の声をそのまま聞くだけです。あるいは仏さまのメッセージを取り次いで下さっている先生の書かれた本…

世界平和に念仏?!

世界平和のために、念仏を唱えましょう!というようなことがいわれていますが、 強い違和感を覚えます。 念仏と世界平和がどう関係するのでしょうか? 宗教とは本来、 個々の生死問題の解決を説く教えであるはず。 世界平和を祈ることは尊いことですが、そこ…

浄土真宗でいう信心

『歎異抄』の後序では、第一に信心の同異ということが、問題として挙げられている。 信心が違うとは、いったいどういうことであろうか。我われが信心というと、念仏を信ずるのも、キリスト教を信ずるのも、鰯の頭を信ずるのも、皆同じであると考えがちである…

いのちはなぜ「尊い」のか

よく「いのちの尊さ」という言葉を耳にしますが、この言葉は別に仏教徒あるいは真宗者だけが使っている言葉ではありません。多くの無宗教の人々からも圧倒的に共感されて使われている言葉です。では、「いのちの尊さ」という言葉は、仏教徒と無宗教の人々と…

「助ける」念仏 「助かる」信心 

『歎異抄』をみますと、第一章に、 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。 信心を要(かなめ)と、こうおっしゃてる。念仏はもとだけど、念仏が念仏になる要は信心だ。これは非常に大事だ。 (中略) 例えば扇でも要がな…

たのむ (憑む) 

蓮如さんは、念仏を「弥陀たのむ」と言う。「たのむ」ということです。「たのむ」とは何か。「たのむ」には、「頼む」と「憑む」の二つがある。蓮如さんが言う「たのむ」は後者の「憑む」です。我々の「たのむ」は前者の「頼む」です。「頼む」は依頼心です…

南無阿弥陀仏のはたらきに包まれて

「助かってみれば助かることもいらなかった」という先人の言葉があります。 非常に共感させられるお言葉です。 言い換えますと、 「南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされてみると、 すべてが、阿弥陀さまのお計らいに依るものであったと知らされた」という…

ハブ空港

この人間界はハブ空港的世界といえるのではないでしょうか。 阿弥陀さまのおはたらきに気付かされるか否か、 浄土 or 迷い(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄) の分岐界であります。 このいまが非常に大事です。 生かされて 今日も 南無阿弥陀仏

中途半端

中途半端ほど、スッキリしないものはありません。 地獄であろうが、 浄土であろうが、 どっちでもよいではありませんか。 白黒つけさせられる。 その方がよっぽど安心させられます。 いずれにせよ、阿弥陀さまのおはたらきの中での出来事です。 阿弥陀さまに…

視点の違い

自分は〜 自分は〜 が 阿弥陀さまは〜 阿弥陀さまは〜 となれば 占めたものです。 自然とお念仏がこぼれます。 なむあみだぶつ

無条件

無条件の救いとは、 そのままの救い、ということです。 自分を着飾る必要がない、ということです。 こんな楽なことはありません。 他力といわれる所以です。 ただただおまかせ、です。 おかげさまで 今日も なもあみだぶつ

コペルニクス的転回

言葉のもつ込められた意味を感じとれる人と そうでない人は雲泥の差です。 「南無阿弥陀仏」の六文字においても然り。 「南無阿弥陀仏」は単なる言葉や記号ではありません。 阿弥陀さまの命が込められています。 そのおはたらきに気付かされることの意義は計…

一心同体

如来を離れて私なし。 私を離れて如来なし。 一心同体南無阿弥陀仏。 感謝、感謝。

井の中の蛙大海を知らず

自分中心の生活が 阿弥陀さま視点の生活に転換させられました 世界が広がります 南無阿弥陀仏のおはたらきに依るものです。 ただ、お念仏申すだけ。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

当たり前?!

当たり前と思って生きていることが 実は、当たり前でなかった、と知らされる 自分の力で生きているように思っていた人生が 実は、阿弥陀さまに生かされて生きている、ということに気付かされる 南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)です。