「ただ念仏して・・・・・・」と明解に答が出されているのに、ここで終っていいはずなのに、何故「念仏はまことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん・・・・・・」と、言い添えられたのか。そこには聖人が、一言一句ききもらすまいときき入れらる門弟たちを前に、何かを感じられたに違いない。
それは門弟達が関東を出る時、確かにまちがいのない答を予想して来られたであろう。そして「やっぱりそうであった」と、予想通りであったことを喜んでいる。その確かめによる安堵の心を、聖人は危ないとみなさったのだろう。
人は自分の間違いないと信じていることを、確かめたいものである。だが、真実は決して掴むものではない。掴むと真実でなくなる。真実でなくなるにもかかわらず、掴んだものそれを真実と思い込む。この思いが危険である。
【念仏における問いと答え 豊島学由 著 百華苑刊 P6、P7より】
「人は自分の間違いないと信じていることを、確かめたいものである」とあります。
本当に真実に遇っていれば、確かめる必要はありません。
確かめようとすること自体、それは真実ではありません。
晴天下にいる人が、今日は晴れでしょうか?と尋ねるようなものです。
そんなことを尋ねている人は、晴天下にはいません。
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人は、
「南無阿弥陀仏」とお念仏が自然にこぼれます。
おかげさまで 今日も なもあみだぶつ