手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

およびごえ

 宗祖(親鸞聖人)の示されるお救いは、頂く信であります。そしてその頂く信とは、名号受領のことであります。すなわち、私の救いのはたらきである名号が与えられるのです。しかも名号を頂くということは、名号のいわれを聞き、名号の妙用が私の心の上に活現されたことであります。すなわち、名号の妙用(みょうゆう)にうちまかせたことでありますから、私の心相は信楽無疑(しんそうむぎ)の一心であります。
 蓮如上人はここのことを、信心というも安心というも六字の外にはないとさとされてあります。私が如来を念ずるのではなく、如来が私に来て生かし給うのです。私を超えさせられた如来が、取るに足らないむさくるしい私の口の端を通じて六字としてまのあたり躍動され給うとは、人生無上の不思議であります。
 宗祖聖人(親鸞聖人)がご一生をかけてあきらかにされた六字のおいわれは、まことに浄土三部経の法義であり、願海(がんかい)の法門でありますが、六字(南無阿弥陀仏)のひとりばたらきということのほかはありません。それは「われをたのめ、必ず救う」「どうぞわれにすがれ、われにまかせよ、われがひきうける」と、そのおよびごえのうえに大悲の全部をうち出して喚(よ)んで下されてあります。
 このおさけびが聞こえて下さるところには、どうすればお助けを頂けるだろうかの思案も無くなって、お助けに助けられます。それと申しますのは、実は聞かせて下さる「およびごえ」がお助けのはたらきだからです。このおよびごえのほかには、如来のお助けはありません。だから聞くままが直ちにお助けです。そしてそのすがたを信心決定と申されるのです。また聞かして頂いたうえには、その名号は如実の称名となってあらわれて下さいます。つまり称名は信相続の易行として名号が私たちの上にはたらきを現わして称えさせ給うのであります。
 このように名号、すなわち「およびごえ」は私たちの内面の生命になって、さとりの世界であるお浄土まで生かしぬいて下されてあるのです。これが名号のはたらきに助けられている事実であります。
【名号不思議の信心 加茂仰順 百華苑 刊 P35〜P37より】



「頂く信」とありますが、なにかのモノガラ(物体)ではありません。
別な言い方をしますと、
(いま・ここで・わたしが)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせていただく、ということです。
『この(阿弥陀さまの)おさけびが聞こえて下さるところには、どうすればお助けを頂けるだろうかの思案も無くなって、お助けに助けられます』とありますように、
どうすれば、どうしたら、(阿弥陀さまに)私は救われるのか、といった私の計らいは全く関係ありません。
阿弥陀さまの「われにまかせよ」のおよびごえに、(わたしは)「ありがとうございます!」と、ただおまかせです。そこに理屈はありません。
おかげさまで 今日も なもあみだぶつ