真実の宗教は、絶対者が相対のものを融化(ゆうか)するところにあります。まことの救いは、絶対者の独りばたらきであって、相対者である私共のはからいや、力はすこしもいらないのです。またあってはなりません。絶対の救いは、絶対から相対へはたらきかけられるものであって、相対から手を出して、救いを求めるものではありません。この問題は宗祖の問題ではなく、今の私どもの直接の問題です。私達はながいとらわれの心によって、つまり因襲といいますか、自分のはじめに思うた先入観と申しますか、それによって如来のお救いをとらえんとし、つかまんとして、かえってお救いのすべてを失い、折角の尊いいわれを無にしているのです。
【安心座談 加茂仰順 著 百華苑 P171より】
絶対の救いは、
「絶対から相対へはたらきかけられるものであって、相対から手を出して、救いを求めるものではありません」とあります。
方向は、絶対者(阿弥陀さま)から相対者(わたし)であって、相対者(わたし)から絶対者(阿弥陀さま)ではありません。
ここで、阿弥陀さまの救いに「私共のはからいや、力はすこしもいらない」とあります。阿弥陀さまに、ただおまかせ、ということですが、そこのところを履き違えて、「棚からぼた餅的発想」で捉えていれば大間違いです。
「仏法は聴聞にきわまる」と蓮如上人はご教示くださいます。「なんとか助かりたい!」という気持ちは非常に尊いことです。その気持ちや聞法に勤しませる心も南無阿弥陀仏のひとりばたらきということを忘れてはなりません。日々、阿弥陀さまのお育てに与っていることに感謝。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏