手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ドーナツ人間

 ある法話の中で、「ドーナツ人間」という言葉を聞いたことがあります。
中心部が何もなくて、輪を作っている。つまり、内部が空っぽで、外側にいろいろなものを集めているさまをドーナツ人間と揶揄しているのです。
 一般的に、人間の意識は外界の事柄を分別で取捨選択して、良いと判断されるものを集めて自分の所有物にして、好ましいものだけで自分の周りを固めようとしていると見ることができます。
 好ましいものは物質・財貨であったり、資格であったり、肩書であったりします。特に世間で評価される事柄が増えたり、嘘でも褒められたりすると、何となく誇らしく、自分自身が評価されたような錯覚に陥りがちです。また、電子機器や自動車等の便利な機械を入手して使いこなすと、あたかも自分の力が増えたかのような思いになって、操作すると心地良い充実感を持ちます。
 現代人は文明の発達で、昔であればびっくりするような能力のあるものを次から次へと手にするようになりました。そして効率、能率を考えて、自分の思いを実現させようと思いを巡らせて努力してきました。
 そんな中で、思い通りにならない課題の壁に直面して、ちょっと立ち止まり、自分を見つめたり、ふと過去を振り返るとき、内面の充実感と、「生きた」という実感のなさを感じるのです。
 ある識者が「豊かさを追い求めた結果、ものの豊かさは手に入れたが気づいてみると心は空白であった」と言い、また、「心の内面の広がりのある世界を知らないまま生きるということは、人生の半分を知らないまま過ごしているということです」と言っています。
 現代はものの豊かさと引き替えに、自分の人生を喪失してしまった状況ではないでしょうか。そんな日本人が「ドーナツ人間」そのものなのでしょう。まさに、自分の内面を豊かにする取り組みをおろそかにしてきたのではないかと、反省されることしきりです。
【医者が仏教に出遇ったら 田畑 正久 本願寺出版 P109〜111より】 



死んで逝くとき、「人間に生まれて本当によかった!」と、言い残せて往ける人生は素晴らしいことです。そういう言葉を残せるか否かは「このいま」が非常に大事です。
つまり、「いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か」ということです。
そのはたらきに気付かされたとき、ドーナツ人間から、あんドーナツ人間になります(笑)。
ここでいう「あん(こ)」は信心です。
どうでもよいことですが、個人的に、あんドーナツは大好きです(笑)
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏