手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聞こえたままが信心

 

換言しますと、

「南無阿弥陀仏のはたらき」に気付かされている、ということです。何の力みもありません。空っぽです。14年前、このブログで投稿した『無疑(稲城 選恵 和上)』を再掲します。

 

【2010年6月15日投稿】

無 疑

『御文章』四の八にあるが如くこの私の往生のさだまりたる証拠が南无阿弥陀仏である。あたかも今日の只今の天気の如くである。今は天気であると思う必要もいう必要もない。間違いないと思っているのが間違いないのではなく、間違いないものがらは天気そのものである。このことを宗祖の釈の上では無疑といわれる。元来無疑は決定が略され、この決定は過去完了でも、未来完了でもない。現在完了を場としているといわれるのである。

【開かれた信心と閉じられた信心 P9 稲城 選恵 著より】