この身体であっても、両親という他なる生体から生み出されたものである。両親もそれぞれ2人ずつの両親から生まれたのである。自分にとって祖母と祖父は4人いるはずである。その祖父と祖母にしても、それぞれ2人ずつの両親から生まれてくるわけだから、8人。8人が生まれるためには16人。16人が生まれるためには32人。32人が生まれるためには64人・・・・・・。
そうやって、どんどんいのちのルーツを遡ってゆくと、十代遡ると1024人。三十代遡ると、10億7374万人になる。まだまだ、遡ることはできるが、キリがないので、このへんでやめておく。
恐ろしいのは、この数字が架空の数字ではないということである。この10億7000万人のうち、もしひとりでも欠けていたなら、自分という存在は成り立っていなかったのである。自分という存在は、約10億7000万人のいのちの結晶であると見ることができる。
あるいは、自分という存在が成り立つためには、10億人の出会いがあったということでもある。たったひとりの存在が、そのいのちのルーツに何十億という人間の出会いを象徴しているのである。
さらに、母体の胎内で、精子と卵子が結合する確率は何億分の1だといわれている。そうすると自己の存在の確率は、「何億分の1」だといわれている。そうすると自己の存在の確率は「何億分の1」×「10億7000万人」ということになって、とてつもなく微かな可能性であったことが分かる。
悲しむべきは、自己の存在の可能性は、驚くべきわずかな確率なのでが、自分には、それが当たり前のことになっていて、なんとも感じないことだ。私たちの関心は、限りなく未来にばかりあるので、自己の存在が成り立ってきいのちの背景には、なかなか目が届かないという悲しさがある。数値的に希少なものだと考えられて、初めて、感動が起こるというありさまである。
このように考えてくると、私たちが生きているのは、ほとんど、「他力」という受動性の世界であることが分かるのである。
【新しい親鸞 上 武田定光 響流書房より】
ここでもいわれていますように、
自己存在の確率は、三十代遡るだけで「何億分の1」×「10億7000万人」という天文学的数字になります。人間に生まれることの難しさが数値的にも分かります。
また、日々生きていくには、太陽、空気、水、食物等、いろいろな恩恵に与っています。
客観的に考えても、わたしは、生かされて生きている、ということがいえます。
いま・ここで・わたしが、生かされていることをじっくり考えてみたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
ドナルドダックの家系図