手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信疑決判 (本願を疑うか、信じるかによって決定する)

 念仏は、誰が、いつ、どのような状態で称えていようと、その功徳は同じであるということは、一声一声の南無阿弥陀仏が無上の功徳を持っているからで、それは称えるものが積み重ねていく有上(有限)な徳ではなくて、本願の名号に無上(無限)の徳がこめられているからです。法然聖人はそれを喩えて「金はにしきにつつめるも、わらづとにつつめるも、おなじこがねなるがごとし」(弘願本『法然聖人絵』)といわれていました。華麗な錦の袱紗(ふくさ)に包んだからといって黄金の価値が上がるわけではなく、藁(わら)で編んだ、粗末な袋にくるんであったとしても黄金の価値が下がるわけではないのと同じであるといわれるのでした。その無上功徳である本願の名号(念仏)を疑いなく受け容れているすがたが信心だったのです。
 法然聖人が信心を強調されたことはいうまでもありません。『選択集』三心章に「生死の家には疑をもつて所止(しょし)となし、涅槃(ねはん)の城(みやこ)には信をもって能入(のうにゅう)となす」といい、私どもが迷いの境界(きょうがい)に止まるか、それともさとりの領域に至るかは、念仏往生の本願を疑うか、信じるかによって決定するのであるという、有名な信疑決判(しんぎけっぱん)をされていることによって明らかです。親鸞聖人が、往生成仏の因はただ信心一つであるという信心正因説を確立されたのはこの信疑決判を承けた説でした。
【親鸞聖人の生涯 梯 實圓 法蔵館 P58~P60より】



わたしが、寿命尽きて、迷いの世界に逆戻りするか、あるいは、浄土に生まれ還相回向のはたらきで南無阿弥陀仏となってこの世界に戻ってくるか、は「わたしが、念仏往生の本願を疑うか、信じるかによって決定する」ということです。
「阿弥陀仏の本願を信じるか、疑うか」ふたつにひとつです。至ってシンプルです。そこに、わたしの計らいが入り込む余地は微塵もありません。
いま、ここで、わたしが、阿弥陀仏の本願を信じるに越したことはありません。なぜなら、いま・ここで・誰にでも、南無阿弥陀仏のはたらきがはたらいているからです。
阿弥陀仏の本願を信じる、
つまり、(わたしが)阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる、ということです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



二者択一 (イメージ)