手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀仏の本願

 はじめは人間を根拠にして法を語る。これが釈尊を出発とした仏教の必然性である。釈尊を出発としたということは、人間を出発としたということである。人間が人間の力で人間をこえることができるという確信、人間に立った法、その法に立った教団は特定の、選ばれた人の閉塞的教団になったのである。
 これに対して念仏というところに、はじめて「老少善悪のひとをえらばれず」ということがいえる。釈尊を出発とした仏教は、人間というものの上に立てられた法、しかし法というが実は機、機に立った法である。定散二善は機の差別である。諸行といわれるが、ああいうものは阿弥陀仏の本願から見れば機である。「善導独り、仏の正意を明かせり。定散と逆悪とを矜哀(こうあい)して」。定散は善人の機、法ではない。人間には定散の区別がある。八万四千の法門といわれるが機が八万四千ある。学問でも何でも複雑になるのは人間の思想であって、ほんとうの単純簡明がない。ほんとうに機を超越するということがない。人によって時によって、異なるのは機であって、法はいつでも、どこでも、誰でも変わらぬものである。これを明らかにしたのが阿弥陀仏の本願である。阿弥陀仏の本願によって、はじめて念仏として明らかになった。一如の法が誰でもいつでもどこでもの法になった。
【安田理深 集(上) 教学研究所編 東本願寺 P23,P24より】


【語句説明】
矜哀(こうあい)
矜も哀もともにあわれむに意で、仏が衆生をあわれむ慈悲の心のこと。
阿弥陀仏(あみだぶつ)
浄土真宗の本尊。
西方浄土にあって大悲の本願により一切衆生を平等に救済しつつある仏。
本願(ほんがん)
仏が因位の菩薩であったときにおこした因本の願いという意。この願いは、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる。
衆生(しゅじょう)
一切の迷いの生類、すなわち生きとし生けるものすべてを指す。
【浄土真宗事典より】



「阿弥陀仏の本願によって、はじめて念仏として明らかになった」
阿弥陀さまが寄り添っておられる証拠は、私の口からこぼれる南無阿弥陀仏というお念仏です。「ただ念仏のみぞまこと」という歎異抄後序のお言葉が響きます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏