手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

私のはからい

善い悪いを思ったりいったりしている限り、本願を向こうに置いているのであろう。本願に遇うと、『自然法爾章』に「よからんともあしからんともおもわぬを自然とはもうすなり」とあるように、善い悪いというこちらの思いが本願力にとらわれてしまったという事である。それを善い悪いというこちらの心を働かせて助かろうとする。これをはからいというのであるが、如来のはからいにはからわれたら、こちらの善悪のはからいが全部間にあわなくなる。この如来の本願をお留守にするから、善悪に執じることになる。
【念仏における問いと答え 豊島学由 百華苑刊 P112より】



(わたしが)善い悪いを思ったりいったりしているところに、阿弥陀さまの存在はありません。そこには、「自分の力でなんとかなるさ!」という自分中心の世界があるだけです。
自分の希望や思いをどれだけ思い馳せても何の解決にもなりません。
阿弥陀さまにただおまかせ」、そこに私のはからいは微塵もありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



はからい(イメージ)