手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「確信する」という表現

 浄土真宗の信心を語る上で、「確信する」という表現に違和感を覚えます。どうしても、自力的な表現に聞こえてしまうからです。国語辞典によりますと、「確信する」とは、固く信じて疑わないこと、固い信念、とあります。自分中心の要素がプンプンします(笑)。(浄土真宗の)信心を語る上で、そこまで、力まなくてもよいのではないか、とも思います。
 「確信する」という表現は、本願力回向の教えである浄土真宗という視点からみますと、「自己主張」がどうも強いようです。どうしても「確信する」という言葉を使うのであれば、「確信させられる」という表現がベターだと思います。あくまでも、主語は阿弥陀さまであって、私ではありません。「確信する」という表現は、特に、第三者からみますと自力的要素を推測し、誤解を招きかねない表現ではないでしょうか。
 やはり、(南無阿弥陀仏のはたらきに)気付かされる、知らされる、という表現がしっくりします。
 このいま、晴天下にいる人が、今日の天気は晴れだと確信する(信じる)とはいわないように、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人は、そのはたらきを確信する必要はありません。このいま、晴天下にいる人であれば、今日は気持ちがいいなぁ〜とは言っても、今日は晴れであると確信する(信じる)とはいいません。確信する必要がないからです。
 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人であれば、「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれます。南無阿弥陀仏のはたらきを確信する(信じる)必要はありません。すでに、阿弥陀さまにおまかせなのですから。
 「確信する」という表現において、皆さんは、どう思われるでしょうか?
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



自己主張(イメージ)