手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

救いの瞬間

ただ信仰というものは、確かに自分ではっきり自覚し、「この瞬間に自分は回心を得たんだ」とわかるものもあるでしょうが、一方でいろんなご縁の中で徐々に信仰の道に入り、入信の時はわからないが、気づいたら深く信心していた、という状況もあるわけです。 (略)
そもそも浄土真宗とは、阿弥陀如来の大いなる本願に救われるものだという他力本願の教えです。それが「自分の救われた時が必ずはっきりわからなければならない」という意見(一念覚知説)は、これは自力であり、やはり本来の浄土真宗の教義に照らしておかしい考え方なのです。
【宗教問題15 P30,P31より 紅楳英顕より】



因幡の源左さんは、以下のように語っています。
『おれが背負っていかねばと、きばっていた草のたばを、牛の背にまかせたとたんに、手ぶらになった自分は、うそのように楽になったのです。そのとき、私のこの生と死のすべてをしっかりと支えて、「お前の生死は、すべてこの親が引きうけるぞ」とよびつづけていたまう阿弥陀如来のましますことを、全身で「ふいっと」気づかせてもらったというのです。(妙好人のことば 梯 實圓 法蔵館 P104〜P107 より)』
全身で「ふいっと」気づかせてもらった、という箇所が非常に印象深いところです。
いずれにしましても、
「気づかせてもらう」ということは、すでに南無阿弥陀仏のはたらきに包まれている、ということです。
石見の才市さんは
「聞いて助かるじゃない
助けてあるをいただくばかり
この才市もな、そうであります 
ありがとうござります
なむあみだぶつなむあみだぶつ」
と述べています。


重要なことは、
いま、ここで、わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、です。自分が(阿弥陀さまに)救われた時を分からなければならない、ということではありません。
「自分の救われた時が必ずはっきりわからなければならない」といわれますと、救いをどうしても自分の力に頼ってしまい、阿弥陀さまに真向きになれない呪文のように聞こえてしまいます(笑)
最後に、
「自分の救われた時が必ずはっきりわからなければならない」という人がいるならば、
その人は、すでに浄土真宗の教えから逸脱している、と言わざるを得ないでしょう。
おかげさまで 今日も なまんだぶ