手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

助からないものが助かる

よろこびもおろそかでお浄土へ早く参りたいとも思えないのは、私に信心が不足していて、まだ弥陀の本願に出会ってないからではなくて、私の中にさかんな煩悩があるせいだというのがわかりました。それでは、その煩悩があるんだったら助からんのかと言えば、そうじゃない。そんなことは如来様がとっくの昔にご存知であって、その煩悩をもった私を助けたいといっておられるのです。そうしたら、私の中に、よろこぶべきことをよろこばない心があるにつけても、いよいよ間違いないお助けだということがわからしてもらえたことになります。だから、浄土真宗のお助けは、助からないものが助かるという論理です。助かるものは助かり、助からんものは助からんという論理ではないのです。助からない私が助かっていく。これはふつうの形式論理、知性の分別論理の尺度にしたら何のことかわからないでしょう。マイナスがプラスでプラスがマイナスだと言っているようなものですからね。知性も尺度にしたらどうしてもそうなりますがわれわれの生命の次元は知性よりもっと深いのです。人間の知性の論理ではなく、生命そのものの論理は形式論を超えた逆説の形をとらざるをえないのです。
【『歎異抄』 第九条 なごりをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P65、P66より】



浄土真宗のお助けは、「助からないものが助かる」という論理といわれています。つまり、矛盾を超えたお助けともいえるでしょう。阿弥陀さまのお救いは無条件といわれます。つまり、いつでも・どこでも・だれもが救われるということです。広大無辺なお救い故、知性で物事を分別して生きている私は、素直に受け入れることができないのでしょう。
生命そのものの論理は、わたしの計らいを超越しています。故に、阿弥陀さまに、ただおまかせ、させて頂く以外にありません。ただ、南無阿弥陀仏なのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



矛盾(イメージ)