手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまにおまかせ

 「如来が正覚をとっていて下されます」のご一言。このご一言は、もとはお釈迦さまの仰せ下されたご一言であります。
 この正覚(名号、親心)は、私の往生の全体と分からしていただくのであります。
 私の気にかかるのは、お助けに本当にふれることです。何だかたよりない、何ともない、はっきりしたもののない不安です。聞かせていただけば、はっきりなるものと思うわけです。
 ところが本当は、こちらがいかにはっきりなっても無駄なのです。また不安があることを気にしますが、それらはすべて聞くものを間違っているのです。聞いてはっきりなってゆくではありません。正覚がはっきりしているのです。そのはっきりした法を聞くのです。
 大概が、しっかり聞いて助かろうとするのです。しっかり聞いたら大丈夫なことになるように思うのです。
 ところが、もっと申せば聞く耳を持った私が聞くのではありません。むしろ聞く耳のない私を知らせて下さるのです。耳を持たないとは、よび声の聞けない人間であることをはっきりさせられるのです。
 聴聞へは、聞こうと思って参るのではない。よび声をはねつけている私です。いわゆる聞こうと思って聞き耳を立てて聞くのではない。聞いて助かるのではない。耳を持たない私であることを知らせたもうのが光明のはたらきです。しかし、よび声を如実に聞くようにして下さるのも光明です。きらいな私をいやがおうでも浄土へつれてゆかねばならぬのが弥陀の本願であります。
 しっかり聞いて助かるのではありません。むしろ私の往生に対する計らい心をみなとりあげて、大丈夫なお慈悲に助けられるのであります。ある青年の言葉といわれる「往生はと、父に問われてほほえみぬ。弥陀にまかせて忘れたけり」であります。
 こちらが大丈夫というのではありません。大丈夫な弥陀に計らわれるのであります。正覚とっていて下さるままに助けられるのであります。
真宗安心 加茂仰順 百華苑 P153、P154より】



100%他力です。
100%他力という表現は、ちょっと変かもしれませんが、そこに、わたしの計らいが入り込む余地は微塵もないということです。すべてが、阿弥陀さまの計らいです。
あと、「お助けにふれる」という表現いいですね〜
言い換えますと、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付く」ということです。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきの中で、日々、わたしたちは生活しています。そのはたらきに気付かせられている生活の根底には大安心があります。生活の支柱が南無阿弥陀仏ということです。
つまり、阿弥陀さまにまかせきっている生活ということです。ここで紹介されているある青年の「弥陀にまかせて忘れたけり」という言葉がそのことを如実に語っています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



3D illustration of Spine, medical concept