手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏のおはたらき

 (歎異鈔)第二章の親鸞のお言葉、ここでは「身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし」と、その「こころざし」という言葉に対して「御(おん)」という尊敬の修飾語が付いている、なぜ「御」がついているかと言うと、「御こころざし」とは「如来のこころざし」だからです。我々は、求道心とか菩提心とかを人間の心だと単純に思っていますけれども、よくよく自分の心を見つめると、我々に求道心とか菩提心なんかありません。我々に求道心・菩提心は無いと言っていいです。我々にあるのは「楽になりたい」とか「苦しみから逃れたい」とか「幸せになりたい」とか、要は「楽」とか「幸せ」とか、自分に都合の良いことを求めている。そういう根性でしかないでしょ。我々に求道心とか菩提心なんかないと言っていいです。それではまったくないのかって言うと、全くなければ聞法するということは成り立たないはずです。求道心・菩提心がないにもかかわらず、こうして聞法する・・・・・・、あるいはたとえ不純な動機であっても聞法する・・・・・・、そこには、我々は自覚しないけれども、聞法へ足を運ばせる「如来の恩こころざし」が用(はたら)いているということです。
歎異抄講述・聞書(2)鶴田義光 響流書房より】



如来の恩こころざし」によって、南無阿弥陀仏を聞かせて頂いているということですね。
自分の意思で、人生生きている、あるいは聴聞している、と思いがちですが、実は違うのでした。阿弥陀さまの御はからいであったのです。
今日も、南無阿弥陀仏とお念仏を称えます。