手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聞法とは

 聞法(聴聞)とは、なぜ阿弥陀如来が私たちを救おうとして願い(本願)を起こされたのかをたずね、阿弥陀如来が現にいま私たちを救おうとはたらきつづけていることを受け入れていくということです。
 親鸞聖人は「聞」そのままが「信心」であると説かれています。ここで注意しなければならないのは「聞」とは、耳からただ仏さまの話を聞くということではないということです。人生のよりどころを明らかにする確かなことばを通して、自らの問題としてみ教えを受けとめていくことです。浄土真宗のみ教えを自ら引き寄せて考えることによって、それがかけがえのないことばとなり、力強く生きていく支えにもなります。
 しかし自らの問題といっても、私たちは自分の知識や経験、価値観などに基づいて、み教えを都合よく聞いてしまいがちです。ですから繰り返し、み教えを聞いて、わが身をふり返ることが大切です。そうして「必ず救う、われにまかせよ」とよびかける阿弥陀如来のはたらきを、そのまま受け入れる身に育てられていくのです。
 お寺で開催している常例布教やさまざまな法座を通して、繰り返し阿弥陀如来のお心に出あっていただければと思います。
【仏事Q&A 前田壽雄  国書刊行会 P142,P143より】



聞法のことを聴聞ともいいます。
仏法は聴聞に極まる、と蓮如上人はお示し下さいます。
〈聴〉という字の意味は「こちらから聞くこと」〈聞〉とは「向こうから聞こえてくること」です。久堀弘義 師は、「(南無阿弥陀仏を)聴きに行き続けておる間に、向こうから聞こえてくる」と仰られます。私の好きな表現です。
向こうから聞こえてくるはたらきは勿論、聴きに行き続けさせているはたらきも阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきです。
聞即信。聞こえたままが信心。そこには、なんの計らいも理屈もありません。
ただ南無阿弥陀仏とお念仏を申すだけです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏