手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏のおこころ

 お念仏をよろこぶとか、お念仏を大切にするとか申していますが、そのお念仏とはいかなることなのでしょうか。またさらに率直に言えば、お念仏称えたら救われるとはどういうことなのでしょうか。またさらに率直に言えば、お念仏称えたら救われるとはどういうことなのでしょうか。いまそのおこころをうかがってみるのであります。
 大概の人は、お念仏は人間の祈りであり、つとめるのであると思っているかもしれません。しかし、ご開山様はそれではありません。これは阿弥陀如来が私の救われるいのちになってあらわれたのが、このお念仏であるといただかれました。おさとりを開かれた如来様は、浄土にありながら、迷うている私をながめて、ただ可哀そうにと思うていられるだけではありません。如来様は、この私を救わねば生きてゆけないのです。それですから、お浄土にあらわれる如来様が、私の身の中にとびこんできて、私がお浄土まで生きぬくいのちとなって下さるのがお念仏です。浄土にある親様が、この私のうけとりやすい、称え易いお念仏となって、私の人生に入り込まれてきます。そしてそれがお浄土に生まれるのです。心には信心となり、口には念仏となり、姿には拝む手となり、ざんきの姿となって、私を浄土まで生き抜かせる力が如来様であり、それがお念仏であります。
 このゆえに、南無阿弥陀仏に救われるということは、お浄土の如来が、私が浄土へ参る姿となって、信心となって、わたしの身の中に生きてはたらくすがたがお念仏なのであります。だから、このお念仏は私の願いや祈りではなく、私を救おうとする如来様が、私の身の中に、私のお浄土まで生きぬくいのちとなって、生きてはたらくのがお念仏です。教えは山ほどあっても、またそれが尊いものであっても、この私の本当に救われる教えというのはこれよりほかにはありません。相対的な世界の私の身の中に、絶対的な如来の力があらわれてきていて下さるのです。
【名号不思議の信心 加茂仰順 百華苑 刊 P51〜P52より】



わたしの計らいを超越したものに対しては、それに従うしかありません。
つまり、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきにふれて、南無阿弥陀仏と報恩感謝のお念仏を称えさせて頂く、ということです。
方向は、絶対的な阿弥陀さまから相対的な世界の私であって、その逆ではありません。
いうならば、川の流れ(南無阿弥陀仏のはたらき)に身をまかせ(気付かされ)、ということですね。そして、海原(浄土)にでます。そして、今度は、還相回向のはたらきで南無阿弥陀仏となってこの世界に戻ってきます。ホント頼もしいことです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



奥入瀬渓流(紅葉)
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