手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

気づいてみれば、もうすでに助かっていた

 「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる」、こういう形で我々に真実の救済が実現する、ということです。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる」ことが、もう助かったことなんですね。念仏もうして助かるのではない。念仏もうして助かるのならば、それは念仏を助かる手段にしていることになる。助かるために念仏するのではない。念仏できたことが、もう助かったことです。念仏できたっていう形で、我々に救いが成り立つ。念仏は簡単に出来るものではありません。「念仏もうすとき」とは書いてない。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」と書いてある。そこに「信不退」ということがある。念仏で助かるのではなく、信心で助かるということがある。つまり「信心」が問題なんです。信心なき念仏を空念仏という。
 もうすでに、すべての人が助かっている。気づいたら、もうすでに助かっている。ただ助かっていることに気づくか気づかないかです。もうすでに助かっている。助かってない人は一人もいない。法蔵菩薩が成仏して、今に十劫をへたまえりと言うんでしょ。もう成仏したと書いてある。ということは本願は全部実現したということでしょ。本願には「一切衆生が助からなければ、私は仏になりません」と誓っている。それがもう成仏したということは、一切衆生が助かったということでしょ。ただそれに気づくか気づかないか、そこに「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」の問題がある。「とき」の問題がある。気づいてみれば、もうすでに助かっている。助かってない人は一人もいない。しかし、気づかなければ、助かっていても、助かっていることが分からない。だから、気づかなければ、助かっていないのと同じです。だけど、気づいてみれば、もうすでに助かっている。だから、竹部勝之進さんが「タスカッテミレバタスカルコトモイラナカッタ」と。「タスカッテミレバ」というのは、気づいてみればということです。気づいてみれば、もうすでに助かっていた。いまさら、何を求めていたのが。何の不足があったのか、ということです。そういう絶対満足のところに、生かされて生きているわけです。非常に単純なことです。あまりにも単純すぎる。だから易行という。何もせんでもいいんです。念仏称えるなんて、そんな暇はいらないんです。もう助かっている。「アッ」って気づいたら終わりです。そういうものです。本当にそうなんです。そうでなければ、「浄土真宗は真実である」と名乗る資格はない。「一切衆生を救う」ということを言えない。どんな人も無条件に救うというんだから。
歎異抄講述・聞書(2)鶴田義光 響流書房より ※H10.6.21(日)上宮寺(岐阜市)『慈光会』例会 法話】



「浄土真宗の信心」について、非常に分かり易く的確に表現されています。
蓮如上人は以下のように示されました。
「当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか」
(宝の山におりながら、その宝を手にしないことは「勿体ない」という言葉で済まされるものではありません)
すでに、宝の山に入っていながら、その宝に気付かずに人生を終えることはまことに勿体ないことです。
つまり、南無阿弥陀仏のはたらきにつつまれている環境下、そのはたらきに気付かずに終える人生は本当に勿体ない、ということです。
「タスカッテミレバタスカルコトモイラナカッタ」といえる人生(生活)を送りたいものですね。
その人生(生活)には真の充実感があります。
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、至ってシンプルです。
シンプルすぎて疑ってしまう背景に、私(自分)のはからい、があるのでしょう。紙一重です。
南無阿弥陀仏の人生に南無阿弥陀仏。



やさしく包む(イメージ)