手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

還相回向のはたらき


南無阿弥陀仏の回向の
 恩徳広大不思議にて
 往相回向の利益には
 還相回向に回入せり

           『正像末和讃』


【現代語訳】
阿弥陀如来から回向(えこう)された名号(みょうごう)、南無阿弥陀仏のご恩は広大で想いや言葉に尽くせない不思議であり、私が浄土に往生して仏果(ぶっか)を得た利益(りやく)として、この迷いの世界にめぐり還り来て他の人のための救いにつくすのです。
(聖典セミナーⅠ 正像末和讃 浅井成海 本願寺出版 P177,P178より)


 このように、親鸞はどこまでも自らの宗教の中に大乗の理念を貫徹させている。我々はこの事を、決して無視することはできない。浄土真宗において救われるべき自己へのこのような了解は、決して没せられるべきではないと思われる。
 実は、浄土真宗の本質は日本的霊性であると喝破した鈴木大拙も、自己が他者の救済の主体に転じることの重要性について、常に強調していた。たとえば、加藤辨三郎氏による「最後の法話」には、次のような大拙の言葉がある。
 極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしれんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻ってこなければならない。還相の世界へはいらにゃならん。(『鈴木大拙−人と思想』岩波書店)
 この事もまた、むしろ日本的霊性そのものなのであろうか。というのも、大拙の自覚した霊性が、このことを言わせているにちがいないからである。我々はこの無用・煩悩にまみれた存在において一転して救いにあずかるとき、他の苦しめる人々のために働こうとする。この思いはもはや理屈ではなしに、救いにあずかった即今・此処より、発動するであろう。
【仏教は本当に意味があるのか 竹村牧男 大東出版社 P252,P253より】



還相回向のはたらき、実にありがたいですね。
先人方も、南無阿弥陀仏のはたらきとなって、いま・ここで・わたしに、はたらいて下さっているのでしょう。その仲間入りにさせて頂けることに感謝です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏