手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信後の立場

 来世は仏にしていただくに決まっているという本願を聞かせてもらったら、本当はよろこぶべき筈なんですね。ところが、そのよろこぶべきことをどうしてもよろこべないのがわれわれの悲しい現実である。往生まちがいなしと聞いてもうれしくて、天に躍り上がるような気持ちで喜んでおりますということにはならないと言うのです。いかがでしょうか。そんなことはありません、私はうれしく思っていますという方がおられますか。ここはごまかさずにはっきりさせなければいけません。ここをごまかすから信心は決定しない。どうして信が定まらないかというと、自分の姿というものを正直に見ないで、どこか無理をしているからです。
 ところが、唯円は決してごまかさなかったのです。自分のはらわたというか、自分の現実を聖人の前にあからさまに投げ出したんです。そうしたら、聖人もまた御自分のはらわたをさらけ出されたんです。そうして二人のはらわた同士が融け合った。おたがいよろこぶべきことをよろこべない身同士、だからいよいよ往生は一定だと答えられたのです。よろこぶべきことをよろこぶから往生は一定だ。ふつうはそう言うでしょう。ところが、聖人の答えはそういうのと反対だった。よろこぶべきことをよろこばないからこそ往生はいよいよ間違いないと思うべきだと言うのです。まずそういう結論がここに出されています。
 これはもちろんどこまでも信後の立場といいますか、すでに他力の信心を得ている二人のあいだの対話ですから、他力の信心がわからない現代の大多数の人々にはすぐにピンと来ないかもしれません。そういう現代人の場合は、私はお浄土へ行きたいと思わないのはいったいどうしてだろうかなんてわざわざ問題にしないでしょう。信のない人はただこの世で長生きしたいだけですから、お浄土に行きたいと思わないでいいのかななど別に疑問に思わない。だからこういう問題をいきなり現代人にぶつけても、かみ合わないでしょうね。これは日頃から如来様の教えを聞いている人の立場での信心の自己反省であるということに注意しないといけません。
【『歎異抄』 第九条 なごりをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P42〜P44より】



他力の信心を得ている二人(親鸞聖人、唯円)のあいだの対話に、ピン!とピントが合う身になりたいものですね。また、「お浄土に行きたい!」という気持ちは非常に大事だと思います。そういう気持ちにさせるのも、阿弥陀さまのおはたらきであることは言うまでもありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


【参考】
歎異抄 第九条(現代語訳)

 「念仏を申していますが、喜びの心は薄く、天におどり地におどる喜びの心が湧(わ)いていませんし、また急いで浄土へまいりたいと思う心が起こってこないのは、どういうわけでしょうか」と、おたずね申しあげたところ、聖人は、「親鸞もそれをいぶかしく思っていたが、唯円房、そなたも同じ心であったか。よくよく考えてみると、天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、いよいよ往生は一定(いちじょう)の身であると思います。というのは、喜ぶべき尊いおみのりをいただいて、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざです。しかるに仏は、このような私であることをかねてからお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫を救おうと仰せられているところですから、他力の悲願(たりきのひがん)は、このように浅ましい私どものためであったと気づかされてますますたのもしく思われます。
 また急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて、ちょっとした病気でもすると、もしや死ぬのではなかろうかと心細く思うのも煩悩のしわざです。久遠の昔から、ただ今まで流転しつづけてきた迷いの古里(ふるさと)は、苦悩にみちているのに捨てにくく、まだ生まれたことのない浄土は、安らかな悟りの境界(きょうがい)であると聞かされていても、慕わしく思えないということは、よくよく煩悩のはげしい身であるといわねばなりません。まことに名残(なごり)はつきませんが、娑婆にあるべき縁が尽きて、どうにもならなくてこの世を終わるときに、かの浄土へは参るはずのものです。いそいで参りたいという殊勝な心のないものを仏はことにふびんに思われているのです。それを思うにつけても、いよいよ大悲の本願はたのもしく仰がれ、この度の往生は決定であると思いたまうべきです。
 念仏するにつけて、天地におどりあがるほどの喜びもあり、また急いで浄土へ参りたいと思うようならば、自分には煩悩がないのであろうかと、かえっていぶかしく思うでしょう」と仰せられました。
聖典セミナー 歎異抄 梯 實圓 本願寺出版 P241〜P243より】



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