手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏さまから私に向けられた「はたらき」

 「南無阿弥陀仏」は私たちが普段よく口にする言葉ではありますが、実は、阿弥陀さまからの「喚び声」なのです。阿弥陀さまという仏さまが、私たちに向かってきて、じかにはたらきかけてくださっている、そうした方向性を持った「はたらき」なのです。「南無」は「われにまかせよ」、「そのまま救う」というはたらきであり、阿弥陀さまのお慈悲にこの私を「おまかせする」、それが「南無阿弥陀仏」なのです。「私から仏さまへ」ではなく、「仏さまのほうから私へ」へ向けられた「はたらき」です。 (略)
 「阿弥陀さまのはたらき」という意味では、「南無阿弥陀仏」というお名号も仏像も一緒です。本願寺中興の祖と言われる蓮如上人は、「南無阿弥陀仏」のお名号を、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と仏さまと同じ本尊として大切にされました。
 私たちはいろいろな言葉を話しますが、はじめて言葉を話す小さな子どもにしても、聞いたこともない言葉をいきなり発するわけではありません。お父さんやお母さん、家族やまわりの人が話している言葉を聞いて、それを真似して言葉にするわけです。ですから「南無阿弥陀仏」も、まずは阿弥陀さまのほうから私に向けられた言葉、「はたらき」として考えていただければと思います。
【ありのままに、ひたむきに 不安な今を生きる 大谷光淳 PHP P60~P62より】



南無阿弥陀仏のはたらきは、阿弥陀さまから私へ、です。
もっと掘り下げていいますと、私は、南無阿弥陀仏のはたらきの真っ只中で生かされています。ということは、そのはたらきに、ただおまかせ、させて頂くだけです。
わたしの計らいや理屈はなんの意味もなしません。
遅かれ早かれ、「南無阿弥陀仏」を阿弥陀さまから私に向けられた「はたらき」として考えていたのが、ありのままにそのままに、受け取らせて頂けるときがきます。言い換えますと、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるときがくるということです。それは、このいまに越したことはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏