手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

大峯 の検索結果:

仏の言葉と出遇う

…ている 、仏の言葉と出遇うことにあります 。その言葉とは南無阿弥陀仏の名号です 。 【本当の命を生きる 大峯顕法話集 響流選書より】 「仏の言葉と出遇う」とは、南無阿弥陀仏に出遇う ということです。つまり、(わたしが)南無阿弥陀仏のはたらきに気づく、ということです。では、そのはたらきに気づくにはどうすればよいのでしょうか? 仏法は聴聞に極まる、と蓮如上人はご教示してくださいます。南無阿弥陀仏の人から教えを受けることがとても大事になってきます。おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

私の身体はしばらくの借りモノ

…めて取り上げます。 大峯 顕 先生は、生前、以下のようなことをおっしゃっていました。「私たちは、ひとりひとり演じている俳優みたいなものだ。男であれば男、女であれば女、医者であれば医者、大工であれば大工、学生であれば学生、それぞれ演じて生きている。」今でも、とても印象に残っていることばです。 つまり、この身体(からだ)もしばらくの借りモノでやがて別れる時がやって来るということです。最近、自分も含め、人をみていますと、そういう目でみてしまっていることがあります(笑)。容姿端麗のか…

世間虚仮(セケンコケ)

… そういえば、生前、大峯 顕先生は、いまこうして生きているけれども、それぞれ演じて生きていると話されていました。つまり、医療に従事している人であれば医者や看護師を演じている、サラリーマンであれば会社員を演じている、農業に従事している人であれば農家を演じている、ということです。みな、それぞれの立場で演じて生きている、ということです。この世は、しばらくの縁でしかありません。 聖徳太子は、 「世間は虚仮(こけ)なり。唯(ただ)、仏のみ是れ真(まこと)なり。」 といわれました。この世…

他力

…ぬ。呼びずめである。 【松並松五郎 念佛語録より】 7年前、このプログで紹介しました「ただスイッチを押して画面を見る」と重なります。言葉は違えども言っていることは同じです。いうならば、南無阿弥陀仏の人は、南無阿弥陀仏で繋がるということです。不思議なようですが、当たり前のことです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 ただスイッチを押して画面を見る(大峯 顕 師) https://tarou310.hatenablog.com/entry/20110714/1310648370

言葉は語る

…てきました。「言葉は語る」といわれた大峯 顕(おおみね あきら) 師の言葉が心に響きます。そして、「生きることについて考えること」は日課となっています。表向きは、バカをやっているオヤジですが、内面は意外と真面目なのです(笑)。人生百年時代といわれていますが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かずして終えていく人生はただ虚しいだけです。「生きること」について真正面から考えていきたいものです。幸いにして、「生きること」の回答はすでに用意されています。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

大峯 顕 先生のこと

大峯 顕 先生との最初の出遇いは、ふと立ち寄った本屋の書籍コーナーでした。先生の文章を読んだとき、ビビビッときました(笑)。その出遇いがきっかけとなり、今なお、私の南無阿弥陀仏生活において大きな刺激となっています。南無阿弥陀仏のはたらきを独特の詩的表現で織りなす文章は素晴らしい、と思います。私の母も感銘を受けたひとりです。 先生が存命中、実際お会いする機会がありました。六角会館(京都市)と願教寺:2回(盛岡市)です。3回しかお会いしたことはありませんでしたが、私にとって忘れら…

言葉の力

「言葉の力」ということに拘っています。大峯顯 師は「言葉は語る」という表現で「言葉」というものについて掘り下げて語られていました。『南無阿弥陀仏』も然り。単なる言葉や記号として捉えるか否か、では雲泥の差があります。

南無阿弥陀仏のはたらき

…る。 【宗教の授業 大峯 顯 (現代人の生命観)P210、P211より】 勝手ながら、タイトルを「南無阿弥陀仏のはたらき」と致しました。 哲学者であり、俳人でもあった大峯師ならではの独特の言い回しです。「南無阿弥陀仏のはたらき」について躍動的にダイナミックに表現されています。こういった表現は大峯師にしかできないでしょう。深遠なるものを感じます。 先生とは京都、願教寺(盛岡市)2回の合計3回、会話を交わす機会に恵まれました。とても気さくでユーモアがあってお洒落な先生でした。本当…

自己の探究(私とは何か)

…宙の中の自己の救い 大峯 顕 百華苑 P75、P76より】 私とは一体何者なのでしょうか? 仏教、もっと掘り下げて「浄土真宗の教え」から学んでみてはいかがでしょうか。そこに発見があるはずです。 昨年11月より、『歎異抄』大峯 顕(百華苑)シリーズをあらためて紹介いたしました。数年ぶりに読み返しまして、終始、頷きながら、楽しく拝読致しました(笑)。 仏法ひろまれ 響け 届け おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 わたしとは? 清沢満之 http://d.hatena.ne.jp/…

医学の限界

…宙の中の自己の救い 大峯 顕 百華苑 P21〜P23より】 生死問題の回答は、ズバリ、浄土真宗の教えに明示されています。 ここでは、 「人間にはわからないこの死を受け容れることができる道が本願を信じ念仏する道であります」とあります。 『本願を信じ念仏する』とは、 言い換えますと、わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ、報恩感謝のお念仏を称える、ということです。 「手品師さん、あなたは何を訳の分からないこと言っているのですか?!」と突っ込まれそうですが、実際、そうなのです…

死ぬのは嫌だと思っても死んで逝かなければならない現実

…宙の中の自己の救い 大峯 顕 百華苑 P17〜P19より】 死んでは困ると思いながら死んで逝かなければならない現実があります。 いざ、私が死んで逝かなければならない現実に直面した時、その心もちは容易に想像できます。その心もちもないままに死んで逝かなければならない場合もあるでしょう。いま生きているということは、裏を返せば、いま死んでいるということです。私の死はいまかも知れません。いのちあっての人生、私のいのちについてじっくり考えることは大変意義があることだと思います。 今一度、…

無条件であることの信じ難さ

…れば地獄に行くのか 大峯 顕 百華苑 P68、P69より】 条件が当たり前に成立している社会で生活している私たちにおいて、無条件といわれても拒否反応を起こしてしまうのは自然の流れだと思います。 阿弥陀さまの救いは「無条件」です! といわれても、本当かな?!となってしまうことは仕方がないことかも知れません。しかしながら、阿弥陀さまの立場からいいますと、「(私を)無条件で救う!」ですので、そのお言葉に従う、おまかせする、しかありません。 妙好人おそのさんは、「団子汁の喩え」をもち…

生きている「いま」が大事

…れば地獄に行くのか 大峯 顕 百華苑 P30、P31より】 受験シーズンですが、試験を受けて合否がハッキリするまでは不安です。たとえ、試験に落ちたとしても、そのことがハッキリさえすれば次の行動に移れます。何事においても、宙ぶらりん状態はどうも落ち着きません。 人生においても然り、寿命を終えた後の行き先が知らされている人の生活の根底には安心があります。生きている、いま、(寿命を終えた)次の行き先の白黒をハッキリさせたいものです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 人生 2 【…

お金と命のどっちをとりますか?

…れば地獄に行くのか 大峯 顕 百華苑 P18、P19より】 「お金と命のどっちをとりますか?」と質問されますと、間違いなく「命」を選択します。 にもかかわらず、「お金」に執着している私がいます。矛盾が成立している現状があります。 ここにもありますように、 「如来さまから見たら、私たち凡夫の頭はさかさまになっているわけです。」と指摘されています。「私の命」というものを、もっと掘り下げて考えていく必要があるのではないでしょうか。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 Money p…

何のために生きるのか

…十六条 宗教的回心 大峯 顕 百華苑 P52〜P54より】 「臭いものに蓋をしろ」的な発想で、「死」というものを考えないようにしているのが現状ではないでしょうか。健康に気を遣うのも突き詰めてみれば「死を回避したい」ということの表れです。残念ながら、人生、生きている以上、死は避けられません。その死は「いま」かもしれません。 「何のために生きるのか」という問いに対して、一般的には お金持ちになるため、出世のため、豪邸を建てるため、社会貢献のため、子供のため、長生きするため、健康の…

私とは何か

…死んで無になるのは怖いと言っているのです。 【『歎異抄』第十五条 即身成仏と信心決定 大峯 顕 百華苑 P51〜P53より】 「南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている私であったなぁ〜」と気付かされることに尽きますね。そう気付かされたひとは、死ぬときに仏に成ります。つまり、寿命尽きたとき浄土に生まれる、ということです。そのことを、「臨終一念の夕、大般涅槃を超証する」と親鸞聖人はご教示くださいます。いやぁ〜、全くもって頼もしいことです(笑) おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

異 議

…即身成仏と信心決定 大峯 顕 百華苑P6より】 歴史は繰り返されるといいますが、 この時代でも、浄土真宗が教えている真理と違うことが浄土真宗の名前において言いふらされている現状があります。 浄土真宗にとって、大変なこと、危険なこと、です。 もしかしますと、現在、指摘されている異議(親鸞聖人が仰っていないこと)が、後の世に、比較対照のモノサシとして、教科書的な役割を果たすのかもしれません。 「平成の歎異抄」として・・・・・・。 そういう視点で考えますと、少しは救われます。 おか…

垣 根

…さずしてをはるとも 大峯 顕 百華苑 P69より】 『ある日、庄松さんが富田村の菊蔵さんとふたり連れだって三本松の勝覚寺さんにお詣りをした。 すると庄松さんは本堂にあがるなり、 「ああ、疲れた、疲れた」といって、仏様にお礼もせずに、畳の上に寝ころんだ。 それを見た菊蔵さんが、 「これこれ、庄松さん、何ということかいな御仏前に寝ころんで、ご無礼なことを・・・」ととがめると、 庄松さんはニコニコして、 「何をいう親の家じゃ、遠慮にはおよばん」と返答した』 【庄松ありのままの記より…

仏法は聴聞に極まる

…十三条 宿業と自由 大峯 顕 百華苑 P60~62より】 仏さまから仏さまの御心(目覚めた人の語る真理の言葉を通して)を聞かせていただくことを聴聞ということがいえましょう ですので、 「聴聞すれば 阿弥陀さまに救われる」というような安易な受け取り方ではなく、『仏さまにお訊ねする、仏さまにお聴きする』というスタンスの聴き方が大事だと思います。 ここで、 「仏法聴聞以外に、他力の信を得られる方法は絶対にありません」とありますが、『仏法は聴聞に極まる』と蓮如上人が示されていることと…

悪い子ほど可愛いという親心

…十三条 宿業と自由 大峯 顕 百華苑 P51~P53より】 私の理屈、私の計らい、私の思い、に自信漲るひとは厄介かもしれませんね(笑) 確かに、そういった善人さまはあまり可愛くありません(笑) 資産家、権力者、学者、有名人といいましても、この限られた人生のことだけです。遅かれ早かれ、強制終了です。この地球上の歴史に名を残したとしましても、肝心の本人は一体何処へ・・・・・・。 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は、永遠のいのちを授かります。 おかげさまで 今日も…

大きな不安(人生の根底に死がある)

…願いが、あらゆる衆生の心のいちばん深いところにひそんでいるわけです。 【『歎異抄』第十三条 宿業と自由 大峯 顕 百華苑 P10~P12より】 いま・ここで・わたしが生きていることに、ふと、不思議さを感じることがあります。 当たり前のように生きていますが、実は、生かされて生きているのでした。この(私の)生命の不思議に気付かされることは非常に大事なことだと思います。私は死ぬ、という大問題に真正面からみつめていきたいものです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 不安(イメージ)

南無阿弥陀仏のはたらきに包まれて

…おられます。ご飯の時間は、仏法はちょっと休憩じゃなく、ご飯を食べるときでも仏法というものはすこしも私たちを離れていないということです。人の命は食事のときに死ぬこともあるのだから、南無阿弥陀仏を忘れてはならない。厳しい人間の命の現実をずばりと言われた、聖者の言葉です。 【『歎異抄』第十二条 教学は何のためか 大峯 顕 百華苑 P35〜P37より】 生かされている命、そのことに気付かせて頂くチャンスはこの今です。 この今を大事にしたいものです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

お念仏

…念仏はいつまでもまっさら清浄です。 (歎異鈔)第十条にありましたように、念仏は「不可称不可説不可思議」であります。 【『歎異抄』第十一条 誓願か 名号か 大峯 顕 百華苑 P46、P47より】 「世界平和を祈ってお念仏しましょう!」なんてことを聞きますが、まったく頓珍漢といいますか、次元が違うことを謳っています。法然聖人、親鸞聖人が聞かれたら、「なんだかなぁ〜」と、きっと嘆かれることでしょう。とても残念な気持ちになります。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 嘆き(イメージ)

浄土真宗の信心について (手品師 推薦の本)

…こ最近、『歎異抄』 大峯 顕(百華苑)シリーズから抜粋して紹介しています。5年ぶりに読み返しています。『浄土真宗の信心』について、非常に分かり易い表現で書かれています。1冊のボリュームは少ないですのでスラスラ読めます。紹介したい文章(5年前)に付箋をしていましたがご覧のとおりです(笑)。超お勧めの本(『歎異抄』 大峯 顕(百華苑)シリーズ)です。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 『歎異抄』第十一条 誓願か 名号か 大峯 顕 ※過去記載 http://d.hatena.ne…

何にビックリするのか?

…第十条 自然の道理 大峯 顕 百華苑P44、P45より】 驚くべきことは、今生で、こんな私が仏に成る身にさせて頂く、ということです。こんな私と謙遜していますが、どんな私なのでしょう(笑) 人は死ぬ、といわれても自分のこととは受け取れないのが現状です。私もさすがに60年後はこの世にいないだろう、と思いますが、明日死ぬとか今死ぬとは到底思えません。大きな矛盾ですね。この今、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂く、つまり、阿弥陀さまにおまかせの身にさせていただけば、成るようになりま…

あまりにも身近すぎて

…第十条 自然の道理 大峯 顕 百華苑P40~P42より】 才市さんの二つの詩からも分かりますように、 わたしは、すでに南無阿弥陀仏のはたらきにつつまれている、ということです。 つまり、私はといいますと、その南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、ということが大事になってきます。阿弥陀さまの存在が、あまりにも身近すぎて南無阿弥陀仏のはたらきに気付かないのでしょうか。 「灯台下暗し」という諺、(チルチルとミチルの)青い鳥という童話がふと浮かびました(笑) おかげさまで 本年も…

自然の道理

…ぶって、賢ぶっていろいろ言うのはみんな我のはからいなんですね。そういう義がすこしもない「無義」のところにお念仏というものの本当の義、真理がある。だからお念仏の世界は、人間の頭の分別では説明もできないし納得もできない世界です。 【『歎異抄』第十条 自然の道理 大峯 顕 百華苑P3、P4より】 「南無阿弥陀仏」とお念仏が、私の口からこぼれることは自然の流れです。 このいまに越したことはありません。 理屈なしに南無阿弥陀仏、報恩感謝のお念仏です。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

助からないものが助かる

…りをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P65、P66より】 浄土真宗のお助けは、「助からないものが助かる」という論理といわれています。つまり、矛盾を超えたお助けともいえるでしょう。阿弥陀さまのお救いは無条件といわれます。つまり、いつでも・どこでも・だれもが救われるということです。広大無辺なお救い故、知性で物事を分別して生きている私は、素直に受け入れることができないのでしょう。 生命そのものの論理は、わたしの計らいを超越しています。故に、阿弥陀さまに、ただおまかせ、させて頂く以…

信後の立場

…りをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P42〜P44より】 他力の信心を得ている二人(親鸞聖人、唯円)のあいだの対話に、ピン!とピントが合う身になりたいものですね。また、「お浄土に行きたい!」という気持ちは非常に大事だと思います。そういう気持ちにさせるのも、阿弥陀さまのおはたらきであることは言うまでもありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 【参考】 歎異抄 第九条(現代語訳) 「念仏を申していますが、喜びの心は薄く、天におどり地におどる喜びの心が湧(わ)いていません…

お念仏は交流です!

…りをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P35、P36より】 「お念仏は交流です!」という表現いいですね。 お念仏(南無阿弥陀仏)が、阿弥陀さまと私の交流の言葉となればしめたものです(笑) 一方的なお念仏(南無阿弥陀仏)は寂しいですね。やはり、阿弥陀さまのお慈悲を感じて称えるお念仏(南無阿弥陀仏)は格別です。「南無阿弥陀仏」をもって阿弥陀さまとコミュニュケーションがとれるということです。阿弥陀さまは身近な存在なのでした。それは、私の口からこぼれる「南無阿弥陀仏」というお念仏が如…