手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

何のために生きるのか

 私は子供のとき、父親に「お父さん、人間は何のために行きとるの」って聞いたことを憶えています。小学校の三、四年頃だったと思います。すると、父は「さとりをひらくためだ」と答えてくれましたが、何だかわかったようなわからないような気持でした。(略)
 今の私だったら、「死ぬことが心配ないようになるために生きているのです」とい言うだろうと思います。さとりをひらくなどと言うと何だか難しくなってくるわけです。私と関係のない特別なことをしなきゃならないのかということになるかもしれませんけれども、誰もが平生いちばん苦になっている死ぬという事はもはやない、ということに気づくための人生だと教えられたら合点がゆくのではないかと思います。この人生はそのことに気づき、安心する場所なんだということです。この根本課題を解かないことには、何のために人生にやって来たかわからないじゃないですか。安心できないで死んでしまえば、結局しんぱいだけの人生だったということになります。「さよならだけが人生だ」井伏鱒二という小説家は申しましたけれども、それをもじって言えば「死ぬ心配だけが人生だ」ということになるんじゃないでしょうか。
【『歎異抄』第十六条 宗教的回心 大峯 顕 百華苑 P52〜P54より】



「臭いものに蓋をしろ」的な発想で、「死」というものを考えないようにしているのが現状ではないでしょうか。健康に気を遣うのも突き詰めてみれば「死を回避したい」ということの表れです。残念ながら、人生、生きている以上、死は避けられません。その死は「いま」かもしれません。
「何のために生きるのか」という問いに対して、一般的には
お金持ちになるため、出世のため、豪邸を建てるため、社会貢献のため、子供のため、長生きするため、健康のため・・・・・・・となるでしょう。
それに対して、ここでは、
『死ぬことが心配ないようになるために生きているのです』と回答されています。
人として生きている根本課題を解決する、という視点から考えますと、先の一般的な回答にはパンチがありません(笑)
「何のために生きるのか」の回答は、ズバリ、浄土真宗の教えにあります!ひとりでも多くの方にその教え(浄土真宗の教え)にふれて頂きたいものです。
「死ぬ心配がなくなった人生」の生活には安心があります。
つまり、お念仏申す生活ということです(笑)
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



人生 1
【出典】Life Goes On (15 pics) – Izismile.com


『歎異抄』第十六条 宗教的回心 大峯 顕 
※過去記載

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20120228