手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法は聴聞に極まる

 人間は、世間に通用する凡夫のそらごと、たわごとの言葉を信用して一生を終わるか、それとも目覚めた人の語る真理の言葉を聴いて、悔いのない人生をおくるか、これが大事な分かれ道です。人生の道は根本的に二つしかありません。仏様の言葉を信じるか、凡夫同士の言うことを信じて「人生そんなものだ」と言ってすますか、のどちらかです。あくまでも一人一人が自分で決めないといけません。
 しかし決めるといっても、自分の力だけで決めることはなかなかむつかしいわけです。それではどうしたらいいか。それは仏法聴聞以外に無いのです。仏法聴聞以外に、他力の信を得られる方法は絶対にありません。自分に相談していてもいったいどうなるのかという大問題の解決は、学校の先生に聞いても、親兄弟に聞いても分かりません。仏様に聴く他ないのです。仏様にお訊ねしたら、「おまえは死ぬのではなく仏になるのだ」とお答え下さるでしょう。これが聴こえたら私たちは死ぬ前にもう助かっているのです。だって、死ぬことはないという安心が得られたらとりもなおさず、それが助かったということでしょう。だから、浄土真宗のお助けというのは死んでから助かるんじゃなく、死なない前に助かるということです。必ず助けるという如来様の言葉が聞こえたことがすなわち、助かったことです。
【『歎異抄』第十三条 宿業と自由 大峯 顕 百華苑 P60~62より】



仏さまから仏さまの御心(目覚めた人の語る真理の言葉を通して)を聞かせていただくことを聴聞ということがいえましょう
ですので、
「聴聞すれば 阿弥陀さまに救われる」というような安易な受け取り方ではなく、『仏さまにお訊ねする、仏さまにお聴きする』というスタンスの聴き方が大事だと思います。
ここで、
「仏法聴聞以外に、他力の信を得られる方法は絶対にありません」とありますが、『仏法は聴聞に極まる』と蓮如上人が示されていることと同じことです。
「方法」という言葉に固執してしまいますと、阿弥陀さまの救いに、なにか条件があるのか、と安易に考えがちです。
「聴聞すれば、阿弥陀さまに救われる」と自分勝手に条件を付けてしまわないことは大前提です。
「聴聞」、言い換えますと、阿弥陀さまに真向きにさせていただく、ということですね。
阿弥陀さまに真向きにさせて頂いたとき、阿弥陀さまと私の間に真のコミュニケーションが生まれます
「南無阿弥陀仏」というお念仏によって。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



ふたつにひとつ