手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

何にビックリするのか?

 私は阿弥陀さまにとっくに助けられていたんだ。これに気づくことが信心です。気づいたことが助かったことです。これから一所懸命聴聞して助かろうというのは、なんまんだぶの世界じゃないのです。「助けてあることのなむあみだぶつ」と才市は歌っています。そうしたら、私どもにはそのことの不思議に驚いて、ありがたさにお念仏申すということがあるだけなんです。私どものなまんだぶつはびっくりした証拠です。私のようなものが何にも知らないうちに、阿弥陀さまにお願いした覚えもないのに、お浄土に生まれるようにしてくださっていたのですね。どんな用意のいい人だって、「今度人間に生まれますから死ぬときにはお浄土につれていって下さい。頼みますよ」と言って阿弥陀さまが「うん」と言われたからここに出てきたわけじゃないでしょう。お願いしたわけでもないのに如来様がお浄土はちゃんと用意してくださってあったということにびっくりしないといけません。
 私どもは火事がおきたり地震が来たり、人が死んだりしたら驚きますが、そんなことはそんなに驚くに値しないことだと蓮如上人は言われています。親鸞聖人もお手紙の中で、去年は大勢の人が死んだけれども、そんなことはかねてからお釈迦さまがお説きになっていることだから、何も驚くことはない、と書いていらっしゃいます。人が死ぬということは何も不思議なことではない。それは当たり前のことだ。生まれたからには死ぬのが当たり前だ。そのことをお釈迦さまははじめからおっしゃっている。今頃何をびっくりしているか。びっくりしなきゃならないのは、そんな私が仏にしていただくということなのだと、お二人は教えて下さるのです。びっくりするところが違うんです。
【『歎異抄』第十条 自然の道理 大峯 顕 百華苑P44、P45より】



驚くべきことは、今生で、こんな私が仏に成る身にさせて頂く、ということです。こんな私と謙遜していますが、どんな私なのでしょう(笑)
人は死ぬ、といわれても自分のこととは受け取れないのが現状です。私もさすがに60年後はこの世にいないだろう、と思いますが、明日死ぬとか今死ぬとは到底思えません。大きな矛盾ですね。この今、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂く、つまり、阿弥陀さまにおまかせの身にさせていただけば、成るようになります。それでよいのです。人生の根底に南無阿弥陀仏。いや人生、南無阿弥陀仏。これほど頼もしいことはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



ビッ栗