手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

悪い子ほど可愛いという親心

 (歎異鈔)第三条には有名な「悪人成仏」の思想が出ています。これは従来の全仏教を根底からひっくり返すような性質の思想です。自力聖道門は諸善を修する道を歩いていって仏に成ることを説くわけですから、これはやっぱり悪を止めて善を行ずる仏道です。もちろん、これは道徳的な自己意識の善じゃなくて、自己の我を捨てて仏様の心に近づいていくという宗教的な善の道です。この自力聖道門の善人の道に絶望された親鸞聖人は、法然上人に従って悪人成仏の他力浄土門に転入されます。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という短い言葉にこの大転回が集約されています。これはこれまでの全仏教の知らなかった真理の極めて鋭い表明です。法然上人の念仏宗を知った人びとでさえ念仏を次のように理解していたのです。「しかるに世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。悪人でも如来様は助けると言っておられるのだから、善人ならなおさら助かる筈だ。この考え方は人間の分別論理の考え方に合いますから、誰でもその通りだと思うわけです。しかし聖人は、「この条、一旦そのいはれあるに似たれども本願他力の意趣にそむけり」と言われます。この考えは、表面を見ればいかにも理にかなっているようだけれども、如来様の他力本願のお心とは違うんだというのです。如来様のお心は、自力ではどうにもならない絶望的な悪人を捨てておけないというところにあるんです。分かりやすくたとえて言ったら、悪い子ほど可愛いという親心です。私の場合でも三人の子供のうち一番頼りのないのが可愛い。親はそう思います。子どもの時から、親の言うことを聞かない独立心の強い子は心配しなくてもいいかわりに、ときには憎たらしいこともある。「お父ちゃん、困った、どうしたらいいのかしら」と言ってくる子に対しては、そんなことは自分で考えろと口では申しますが、親としてみたら、やっぱりその子の方が気がかりになります。皆さんは優秀な子どもさんばかり持っていらっしゃるから、そういう経験はありませんか(笑)。
 如来様も、自分の力というものを信じることができない本当に駄目な私だなと思っている凡夫、どうしていいか分からんで途方にくれている凡夫のほうが可愛いのでしょう。その凡夫を真っ先に救いたい、それが如来様の本願のお心だということです。だから、自力の人は何故救われないのかと言ったら、如来様の力より自分の力を信じているからなんです。道徳的に悪いことをしない人とか、会社での仕事も一人前にやっている人とか、学問ができる人とか、大学の教授をやってきた人とか、こういう人が一番助かりにくい(笑)。どこか自分の力をたのみにしているところがあるから、如来にまかせないで講釈や理屈を云う癖があります。私も宿業によって学問をしてきましたけれども、学問なんかでは自分の後生の一大事はとても助からないのです。往生の大問題には学問なんかは何の役にも立たないのです。論争で他の学者に勝ったところで往生はできません。学問といえでも世間の話です。そんなものは何の誇りにもなりません。そういう悪人を必ず助けるとおっしゃっている如来様のご本願だけが、私の誇れるただ一つのものだということを言われるんです。
【『歎異抄』第十三条 宿業と自由 大峯 顕 百華苑 P51~P53より】



私の理屈、私の計らい、私の思い、に自信漲るひとは厄介かもしれませんね(笑)
確かに、そういった善人さまはあまり可愛くありません(笑)
資産家、権力者、学者、有名人といいましても、この限られた人生のことだけです。遅かれ早かれ、強制終了です。この地球上の歴史に名を残したとしましても、肝心の本人は一体何処へ・・・・・・。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は、永遠のいのちを授かります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



『歎異抄』第十三条 宿業と自由 大峯 顕 
※過去記載
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20111123