手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏のはたらき

 現代人の一般的な感受性から最も遠ざかってしまったものが、まさしくこの普遍化の方向への生命の自己超越である。現代のわれわれには、個体としての生命の輪郭だけが強く意識され、普遍的生命と個体とのつながりは、ほとんど見えなくなっている。生命とは、個人の中でせいぜい数十年のあいだ機能している量的なプロセスやシステムにすぎないのであって、われわれの身体が死滅すれば、生命もまた終わってしまうのだ、という生命観が当たり前のようになってしまい、これに対する疑問が真剣に出てこないのである。これは一般人だけでなく、生命を論じている専門家たちの場合でも同じである。そして、宗教とは、個体的なものに決まっている生命というものへの哀惜の心情の合理化か、個体の次元での生命の拡大を不合理な仕方で求める主観的信念にすぎないものとみなされているのである。
 しかしこれは、生命に対する基本的な誤解だと言わなくてはならない。個体性としての生命をすべてだとするのは、すでに硬直した生命観である。この世の生存が生命の唯一の究極目的だと考えている生き方は、実は生命それ自身の方向にそむいた生き方であり、真に生きていない人生である。そのとき、生命の運動はそこで停止し、生はいつのまにか固定して死に変わっているわけである。この時世の生の充足、個人的な幸福と長命だけを最高善とするだけの生き方では、生に影のようにともなう空しさ、一種のニヒリズムをどうしても克服できない理由はここにある。この世の命がすべてであって、死ねば何もないという人生は、生命そのものの本来の流れに逆行しようとする不自然な生き方だからである。
 宗教的信仰とは、生命に対して個人が抱いている観念とかイデオロギーではない。そうではなく、自我中心的な生の立場を捨てて、個人の内にはたらいている普遍的な生命そのものの要求に自分をまかせて生きることである。偉大な世界宗教の開祖たちが、「神」や「仏」の名で教えたところのものは、生命のこの大きな運動のことに他ならない。この世だけで消えてしまうものは生命ではない。消えると同時に消えないもの、自己を否定して自己を肯定するダイナミックな運動こそ、生命の真の本質である。「生命の尊厳」ということばが、たんなるスローガンだけで終らないためには、生命論の場面に、このような視点を回復することがどうしても必要だと思われる。
【宗教の授業 大峯 顯 (現代人の生命観)P210、P211より】



 勝手ながら、タイトルを「南無阿弥陀仏のはたらき」と致しました。
哲学者であり、俳人でもあった大峯師ならではの独特の言い回しです。「南無阿弥陀仏のはたらき」について躍動的にダイナミックに表現されています。こういった表現は大峯師にしかできないでしょう。深遠なるものを感じます。
 先生とは京都、願教寺(盛岡市)2回の合計3回、会話を交わす機会に恵まれました。とても気さくでユーモアがあってお洒落な先生でした。本当にありがとうございました!
おかげさまで 誕生日も 南無阿弥陀仏