手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

無条件であることの信じ難さ

たとえば町のスーパーで、「今日はどの商品もただです」と言われても誰も信用しないでしょう。ところが「今日は一律百円です」と言ったら皆、本当と思うでしょう。そのように、こちらが仏さまの方へ何か持っていくと御利益があるというふうに、考えやすいのですね。無条件で救われる御利益というようなことはなかなか信じられないのではないでしょうか。だから如来の本願を信じることほど難しいことは他にないと「正信偈」に説かれてあるのです。「邪見・憍慢の悪衆生信楽受持することはなはだもつて難し。難中の難これに過ぎたるはなし」。毎日読誦している大事なところです。凡夫の私をそのままで救うと言われている、阿弥陀さまの単純無比な真理の言葉、南無阿弥陀仏の名号を受け入れることほど難しいことはないと言われるのです。単純無比なことの受け入れることがいちばん難しいのです。複雑なことはかえって受け入れやすいのです。
【『歎異抄』第十七条・第十八条 信心がなければ地獄に行くのか 大峯 顕 百華苑 P68、P69より】



条件が当たり前に成立している社会で生活している私たちにおいて、無条件といわれても拒否反応を起こしてしまうのは自然の流れだと思います。
阿弥陀さまの救いは「無条件」です! といわれても、本当かな?!となってしまうことは仕方がないことかも知れません。しかしながら、阿弥陀さまの立場からいいますと、「(私を)無条件で救う!」ですので、そのお言葉に従う、おまかせする、しかありません。
妙好人おそのさんは、「団子汁の喩え」をもちだして、以下のように表現しています。
「あの夕方になりますと、女中がお汁を拵(こしら)えて、それへ団子を入れて下から焚きたてますね。すると団子に煮える気はないけれども、火の力でひとりでに煮え上がりますね。煮え上がったと思う頃に、すぐ、すくい上げて下さりますよ」
あるいは、先人は
「(わたしが)南無阿弥陀仏を聴いているうちに、向こうから聞こえてくる」という表現でお示し下さいます。なにもかも阿弥陀さまのお計らいなのでした。
つまり、遅かれ早かれ、(私は)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる、ということです。それは、いまに越したことにはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



拒絶