手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

私とは何か

 たいていの人は、死は一番よくないことだ、死んでしまったら何もないとわかったように言ってますが、それは自分が勝手に想像しているだけの話じゃないですか。それは人間の妄想にすぎません。妄想から覚めた人の言うことを聞かないことには、人は決して安心はできません。阿弥陀様やお釈迦様の仰せに聞けば、死とは自分が無になることではなく、人間商売をやめるだけのことです。私は人間だといっても、永遠の昔から人間をやってきたのではありません。ほんの数十年前から人間をやりだしたんでしょう。何十年か前に人間になったばかりで、それも間もなくやめるんですね。今晩やめるかも分かりません(笑)。人間の身体というものは、私たちがせいぜい百年のあいだ着ている着物です。しかし、私自身というものは身体でなく魂です。
 魂という言葉に誤解があったらいけませんからもう少し正確に言うと、この私というものの本質は何とも言いようのない謎なのです。私は人間だと言っている、この私とはそもそも何者なのでしょう。「私は人間です」だけではすこしも答えになっていません。人間としての私は百年間で終わりますが、人間をやめたって私はやはり私です。その私とはいったい何者かということの究明こそ仏教です。私とは何かを考えるといったところで、自分の我の心の中で考えておっても駄目です。そんな我のはからいをやめて仏教の教えを聞いたらわかるのです。お前は、もとから如来の、大きなたのもしいいのちの中に生かされている。無量寿の海に浮かんでいるのが、お前というものの正体だということを如来様が教えてくださるのです。そうしたら、私たちははじめて安らかになります。私たちは如来様のいのちの海に浮いているわけです。生まれる前から浮いているわけです。このことに気づき目が覚めた人はもはや死ぬことはありません。仏様の言葉を信じられない人だけが、死んで無になるのは怖いと言っているのです。
【『歎異抄』第十五条 即身成仏と信心決定 大峯 顕 百華苑 P51〜P53より】



「南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている私であったなぁ〜」と気付かされることに尽きますね。そう気付かされたひとは、死ぬときに仏に成ります。つまり、寿命尽きたとき浄土に生まれる、ということです。そのことを、「臨終一念の夕、大般涅槃を超証する」と親鸞聖人はご教示くださいます。いやぁ〜、全くもって頼もしいことです(笑)
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏