手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

あまりにも身近すぎて

 私たちは十劫の昔から阿弥陀さまのお助けの中にいるんです。阿弥陀さまの中以外に生きる場所はどこにもありません。そのことを知らないで、自分の力で生きているように思っているからどこまでも生死輪廻を繰り返してきたのでありましょう。ところが、このたびお名号を聞いて、「ああそうだった、私はとっくに如来さまのいのちの中にあったんだ」ということをわからせてもらったことを、「信心定まる」と言うんです。それは、もとから如来のいのちの中にあった自分自身の発見です。(略)
 お説教をよくお聴聞していたらいつか助かるのだろうというふうに受け取っている人もいるかもしれませんが、たとえば妙好人の浅原才市はそうは言っておりません。
 「聞いて助かるじゃない
  助けてあるをいただくばかり」
 「たすかるとわ、そりゃ無理よ
  たすけてあるところの
  なむあむだぶつ」
 おわかりになりますか?一所懸命聴聞してこれで助かろう、というのははからいだというのです。聴聞しようがしまいが凡夫は地獄に落ちるに決まっている。そんな凡夫が、とっくの昔に如来さまに助けてもらってあるんだ、その証拠がなんまんだぶつの名号だと才市は言うのです。これは言葉ではいえない信仰体験の詩的表現ですから、私がまたここで義でもって余計な説明をしますと、大事な味わいはぬけてしまいます。才市という人は信者であるだけでなく、鈴木大拙 博士によって世界に紹介された天才的な宗教詩人で、彼の日本語の微妙な使い方がこの不思議の消息を見事に言語にしているわけです。
【『歎異抄』第十条 自然の道理 大峯 顕 百華苑P40~P42より】



才市さんの二つの詩からも分かりますように、
わたしは、すでに南無阿弥陀仏のはたらきにつつまれている、ということです。
つまり、私はといいますと、その南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、ということが大事になってきます。阿弥陀さまの存在が、あまりにも身近すぎて南無阿弥陀仏のはたらきに気付かないのでしょうか。
「灯台下暗し」という諺、(チルチルとミチルの)青い鳥という童話がふと浮かびました(笑)
おかげさまで 本年も 南無阿弥陀仏



灯台下暗し(おやじ編)