手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

死ぬのは嫌だと思っても死んで逝かなければならない現実

 長生きしたいという願いだけでは安心して人生を生きられないでしょう。それどころか、長生きだけを願っている人の人生はいちばん心配な一生だと思います。毎日毎日がその心配だからです。お金も欲しいなんて言っているのは、いつまでも生きておれると思っているからです。もし強盗が入って来て、いきなり「金を出せ」と言われたらどうしますか。「わしは金さえあれば良いから、さあ、どうぞ殺してくれ」とは言わない、どうか命だけは助けてくれと言うでしょう。人間が最後に言う言葉は「どうか命だけは助けてくれ」に決まっています。まだまだ死なないと思っているから言わないだけのことで、いよいよ金を取るか命を取るかどちらか決めろと言われたら、わしは金さえあれば良いのだから命はあげますという人はおりません(笑)。だからいちばん助かりたいのは命ではないですか。
 ところが、その命ほど助かり難いものはないのであります。何しろ人間の死亡率は100パーセントですからね。だから信心のない現代人はおそらく、命だけは助けてと思いながら死ぬのではないかと思います。生命の願望を満たすことができないで仕方ながないとあきらめて死ぬのです。あきらめるといっても、実は死んでは困ると思って死ぬわけですから、これは地獄行きの心ですね。地獄行きの心とはどういう心かというと、死ぬのは嫌だと思って死ぬ心のことです。そうではないですか。いちばん嫌なことをするのですから、仏法を聞いていない人は地獄行きだということははっきりしています。
【『歎異抄』後序 宇宙の中の自己の救い 大峯 顕 百華苑 P17〜P19より】



死んでは困ると思いながら死んで逝かなければならない現実があります。
いざ、私が死んで逝かなければならない現実に直面した時、その心もちは容易に想像できます。その心もちもないままに死んで逝かなければならない場合もあるでしょう。いま生きているということは、裏を返せば、いま死んでいるということです。私の死はいまかも知れません。いのちあっての人生、私のいのちについてじっくり考えることは大変意義があることだと思います。
今一度、いま・ここで・私が、生かされている現実を掘り下げて考えてみたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



人生 3(乗物で表現)
【出典】Life Goes On (15 pics) – Izismile.com