この自分というものはこの世に生まれた時にはじめて出現したのではありません。自分はこの世に生まれる前にもやはりこの自分だったのです。自己というものには始めも終わりもありません。仏教とはこの不思議きわまる自己というものの正体の探究なのです。自己とはそもそも誰なのかということの究明が仏教である以上、浄土真宗も例外ではありません。道元禅師は、「仏教をならふといふは自己をならふなり」と端的に仰っています。それは曹洞禅の教えであって浄土真宗とは別だなどと思っていたら大きな間違いです。大乗仏教はすべて自己の探究なのです。
近代日本の仏教改革者の清沢満之はこう書いています。「自己とは何ぞや。是れ人生の根本問題なり。自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾にこの境遇に落任せるもの即ち是れなり」と。この自己とは何か、この自分の正体は何かという問いに答えを得る以外に仏教はありません。「自分は自分です」では何の答えにもならないのです。自分というものは一体何ものかということは仏さまに教えていただかないことには決して分かりません。自己とは阿弥陀さまの本願に乗托して、死ぬまで煩悩をおこして生きる他ない存在のことであります。しかし、煩悩をおこしていても何の心配もない。阿弥陀さまの本願にまかせた以上、その煩悩を持ったままで必ずお浄土に生まれるのです。
【『歎異抄』後序 宇宙の中の自己の救い 大峯 顕 百華苑 P75、P76より】
私とは一体何者なのでしょうか?
仏教、もっと掘り下げて「浄土真宗の教え」から学んでみてはいかがでしょうか。そこに発見があるはずです。
昨年11月より、『歎異抄』大峯 顕(百華苑)シリーズをあらためて紹介いたしました。数年ぶりに読み返しまして、終始、頷きながら、楽しく拝読致しました(笑)。
仏法ひろまれ 響け 届け
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
清沢満之
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20160515
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20150125
『歎異抄』後序 宇宙の中の自己の救い
大峯 顕 ※過去記載
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20130824