手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

医学の限界

 自分が死ぬということは現代といえども巨大な謎であります。死ぬということは各人に問いを迫るまっさらな謎なのです。どれだけ自然科学や医学が発達しても死ぬということはどういうことなのかわからない。身体のことについては医学や生理学やバイオテクノロジーの研究が発達して細かくわかってきましたけれども、死そのものが何であるかは医学では決して解明できません。今までできなかっただけでなく、これからもできません。医学が解明するのは死ぬ前の世界のことです。死に至るまでの生体の現象を医学は解明するのです。病気の原因についていろいろ研究してそれをとりのぞく処置や生命を引き延ばすような処置は医学がやってくれます。
 それから死が起こった後の死体の生理学・病理学的変化というものについてはやはり医学が解明できます。どういうプロセスを経て死体が崩壊していくかという研究です。最近の脳死という現象についても同じことです。人工呼吸器をつけて治療しているうちに脳幹の機能が不可逆的に停止して脳死が起こり、何日か経ったら脳の自己融解が起こるのです。脳というものは融けていくということがわかっています。しかしそういうことは、すべて死体に起こる現象であって、死そのものではありません。つまり、医学や生理学の対象となるのは、死に至るまでの生体の現象とそれから死が起こってからの死体の変化です。これは医学的に解明できますが、死そのものが何であるかということは、科学ではわからないまったく別次元の事柄です。死が何かはじっさいに死んだ本人でないとわからないことです。生きている人はまだ死んだことがないのですから、死が何であるかは誰にもわからないことなのです。私もまだ死んでいないのでわかりません。人間にはわからないこの死を受け容れることができる道が本願を信じ念仏する道であります。あるいは広くいって真の宗教というものはこの不可解な死というものの究明です。どんなに進歩した医学や生理学でもそういう死そのものと直に向き合うことはできないのです。
【『歎異抄』後序 宇宙の中の自己の救い 大峯 顕 百華苑 P21〜P23より】



生死問題の回答は、ズバリ、浄土真宗の教えに明示されています。
ここでは、
「人間にはわからないこの死を受け容れることができる道が本願を信じ念仏する道であります」とあります。
『本願を信じ念仏する』とは、
言い換えますと、わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ、報恩感謝のお念仏を称える、ということです。
「手品師さん、あなたは何を訳の分からないこと言っているのですか?!」と突っ込まれそうですが、実際、そうなのですから、そう言わざるを得えません(笑)
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



限界