手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

歎異鈔

 日本社会では、特定の宗教集団による強引な勧誘は盛んであっても、宗教とはなにかについて、まとまった知識を身につける機会が少なく、したがって宗教の中身がはっきりしないまま「無宗教」と称している場合が多いようだ。もしそうならば、宗教に関する知識を一通り身につけたうえで、「無宗教」を標榜しても遅くないではないか。
 加えて、私から見れば、「無宗教」もまた、一つの宗教心と考えられる。「無宗教」の人も、世界と自分が絶対的な存在だと確信しているわけではない。世界と自分の危うさは、深浅のちがいはあっても、だれでも意識して暮らしているのだ。だからこそ、その危うさを紛らす手段として、盆には先祖の墓に詣でて、正月には初詣に向かうのであり、神社や寺院、教会にも足を運ぶのであろう。
 それならば、人間存在の危うさに真正面から取り組んできた宗教という営みに向き合ってみるのも一つの選択ではないだろうか。
 いずれにせよ、『歎異鈔』は、宗教とはなにかを知るうえで、格好の教材となるように思われる。『歎異鈔』の内容を紹介することによって、宗教的なものの考え方が明らかになり、「無宗教」者にも「宗教」に対する共感が生じるのではないか。そうした期待が私にはある。
無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】



ここで、
「人間存在の危うさに真正面から取り組んできた宗教という営みに向き合ってみるのも一つの選択ではないか」とあります。その格好の教材のひとつに『歎異鈔』の存在を挙げています。わたしも同感です。
いま・ここで・わたしが生きている(生かされている)意味を考えてみたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏