手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ギュギュッと凝縮

 親鸞の理解によれば、阿弥陀仏自体が、真理が人間のために仮に姿をとったもの、なのであり、阿弥陀仏の本体(法性・真理)は、人間の認識を絶しており、言葉でも理屈でも感覚でも捕まえることはできない、まったく人間とは隔絶している。だが、その絶対的な真理が人間のために辛うじて理解できる手がかりをもって登場しているのが阿弥陀仏という仏なのだ。
 辛うじて理解できる手がかりとは、経典に記されているように、阿弥陀仏はもとは人間であり、人間の願いを結集してその実現のために、気の遠くなるような時間をかけ、困難な修行を重ねて、ついに阿弥陀仏となり、人間のために自分の名を称せよ、そうすれば、いかなる人間でも救済して仏とする、という約束している点をさす。
 阿弥陀仏の根本には、人間の願いがある。この点が阿弥陀仏を理解する重要な鍵である。阿弥陀仏とは無数の人々が願い続けてきた、人類の願いの結晶であり、そのシンボルなのである。
無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】



「自分の名(南無阿弥陀仏)を称せよ、そうすれば、いかなる人間でも救済して仏とする」とありますが、自分の名を称させるのも阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらき、ですね。
私の理屈や考えを超越したものにおいては、その超越したものに全託するしかありません。南無阿弥陀仏のはたらきは色や形はありませんが、「南無阿弥陀仏」という言葉となってわたしの上に具現化されています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏