2017-01-01から1年間の記事一覧
人は必ずしも臨終を平静に迎えるとはかぎらない。どのような悪相(あくそう)をもって終わることになるかもしれないであろう。そもそも苦しい息のなかで、念仏を唱えることはとても難しいのではないか。にもかかわらず、死ぬ瞬間には妄想を懐いてはならない…
『歎異鈔』では、明確な、阿弥陀仏への信仰が要求されている。となると、阿弥陀仏はどこに存在するのか、が問題となるし、かりにその物理的存在を問う必要がないとしたら、阿弥陀仏の存在をいかに納得するのか、が重要な課題となる。このような阿弥陀仏の存…
私が学生のとき、指導を受けた恩師の一人がこのように仰っていました。 授業中に「みなさん、わかりましたか?」といったときには、「みなさん」をそれぞれの名前に置き換えてください。たくさんいる受講生のうちの、何人かがわかってくれたらよいというので…
善導大師は定善義に、「念仏の衆生の身・口・意の三業と、阿弥陀仏の三業とはお互い離れない」と仰っています。 これは「念仏衆生摂取不捨」の解釈として述べられています。阿弥陀仏の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわない…
私の趣味はマジックです。 観客からしてみると不思議としか思えない現象であっても その背景には、手品師しか知らない仕掛けが施されています。 南無阿弥陀仏もそうなのでしょう。 阿弥陀さまが計り知れない大仕掛けを施されています。 いずれ、その大仕掛け…
まずは南無阿弥陀仏のはたらきに気付くことです。 いまは、(わたしは)阿弥陀さまにおまかせ、ただそれだけ分かっていれば十分です。 このいま生かされている壮大な仕掛けはいずれ分かりますので。 いまは、ただお念仏を称えるだけです。
自分の体もしばらくの借りモノです。 望んでいないルックスかも知れませんが(笑)、しばらくの縁ですね。 いずれ自分の体とも別れの時が来ます。 メンテナンスをしながら、もうしばらく付き合っていきます。
なんやかんやいいましても 結局のところ「わたし」です。
心臓ひとつに注目してみましても不思議さを感じます。 私の意思に関係なく動いているからです。 心臓は血液を全身に送るポンプの働きをします。 その働きが止まれば、当然、死んでいかなければなりません。 他にも腎臓や膵臓等も私のコントロールが効かない…
なぞなぞは子どもには人気ですが、そこには大人も考えさせられるものがあります。 「自分のものなのに、他の人の方がよく使うもの、なぁに?」 このなぞなぞをある会で申しあげたところ、働き盛りの一人のお父さんが自信満々に手を挙げて答えられました。 「…
宗教の「教え」は、「情報」とは異なります。情報をあつかうスキルは熟達していきますが、教えに身をゆだねることは簡単ではありません。特に現代人はその傾向が強いと思います。 情報というのは新しいものが手に入れば、それまでのものは不要になります。役…
空前の将棋ブームです。 北斗の拳 ケンシロウ風にいいますと、 「お前はすでに詰んでいる」となります。 すでに秘孔を突かれているわたしは、 「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるだけでした。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
もしかしたら、私たちは信心があるかないかということで、浄土とか阿弥陀さんということを私たちの思いの中だけの小さな器(うつわ)の中に閉じ込めていたのではないか。阿弥陀さんは、私たちに信じられなくても心配しなくてもいいよと言ってくださっている…
お葬式は、浄土に向かって、そして仏さまに成る最後の仕上げなのです。そういう仕上げに向けて生きていくような生き方を、私たちは今この場で、「なんまんだぶつ」を申していくということの中で、一歩一歩、歩んでいるのです。仏に成るという大仕事が完成す…
〜したら とか 〜すれば とか といった仮定をどれだけ並べまくっても仮定のままです。 そこに解決はありません。 真実に向き合わせて頂きたいものです。
偉そうなことをいっていますが、 醜い奴なんです。 日々、反省。
「自分探し」といいましても、 到底、自分を自分自身で探し切れるものではありません。 結末は容易に想像できます。 阿弥陀さまに依らなければ、本当の自分探しは完結しません。
わたしの希望や思いをどんなに頭の中でこねくり回してもなんの進展もありません。 肝心の阿弥陀さまは一体何処にいったのでしょうか。
本当の「悔いなき人生」とは、一体何なんでしょう。 今一度、考えてみたいものです。
わたしは生かされているんだなぁ〜、と気付かせて頂くことはとても尊いことです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
「人は死ぬ」当たり前のことですが、 では、「私が死ぬ」となるとどうでしょう。 そこのギャップはなかなか埋まりません。
菜種ほど落ちやすいものはない。触っただけでもパラパラ落ちる。その落ちやすい菜種でも莢(さや)がまだ青いうちはいくら唐竿で叩いても落ちん。実が入るとこちらが何もせんでも、ちょっとした風でもパラパラ落ちる。 心に実の入らしてもらったものは自分の…
お乳の中には蛋白質もビタミンも赤ちゃんが育つために必要な養分がみんな含まれておりますので、飲みさえすれば栄養の知識がなくても大きくさせてもらえます。わかることに骨折るよりまず飲ませてもらうことが大事なんです。お乳を飲んで大きくなれば自然に…
先生(鈴木大拙)は、テーブルを叩いて 今の聞こえたか? どこで聞いた? といわれたので 私は賢ぶって、耳で聞いたと応えずに「全身で聞いた!」と応えました。 すると、(先生は) 「いやいや、そんなけち臭いものではないぞ。全宇宙が聞いたから、美穂子…
おとうさんに会った人の中に山本太朗さんという人があった。この人は仏法はおろか、平素から人間の心とか思想とかに関心のない人で、その夜も「林さんのところへ偉い人が来る」ということで奥さんに引っぱられて仕方なしに顔を出したにすぎなかった。 私が、…
(浄土)真宗の阿弥陀如来様ってのは南無阿弥陀仏という言葉となって私のところへ私を目覚ます働きとして現れ出てくださっている、というのが南無阿弥陀仏という名号ということなんですよ。 だからそのことがご縁あって聴聞さしていただいて「なるほどなぁ。…
2017法語カレンダー(真宗教団連合) 今月のことばは、親鸞聖人の『浄土和讃』の中、「諸経讃」と呼ばれる一首です。さまざまな経典の言葉を通して阿弥陀さまと浄土の功徳を讃嘆するもので、この一節では信心について示されています。 はじめに「大信心は仏…
弘前公園外堀(弘前さくらまつり) H29.4.27撮影 江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味は、「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得ておくこと。」というように受け取…
親鸞聖人は、信心、すなわち無疑心のことを、「信文類」では、しばしば「疑蓋雑わることなし(ぎがいまじわることなし)」とか、「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)有ること無し」とも言い表されています。「蓋(がい)」とは、覆い隠すものという意味で、一般的…
南無阿弥陀仏の「いま」のはたらきに対して 「そのうちなんとかなるさ」というわたしの甘い期待や思いが、噛み合う筈はありません。 こういうことを、ボタンの掛け違い、というのでしょう。(ボタンの掛け違いは)見た目も変です。 「いま」のはたらきに「い…