手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

生死一如(しょうじいちにょ)

 私たちの分別というものは、それを対象化して実体化します。生は生。死は死と。そこで今自分は生きている。これが何十年先までも生きる。そうするとその間が生だ。そして、その先に死というものがやってくる。こう対象化して考えているわけなのです。
 でも今の事実からするとそうではないわけですよ。一息一息が生死なのです。吐いて吸って。そして吸って吐いて、吸って吐いてというこの一息の入出ということ。だから私たちが生きていることは正にこれ「生死一如」という形で運ばれているのですけれども、私の分別はそんなものではありませんね。今申し上げた通り、実体化しておりますから。
 よく日頃、門徒さんとも話をしておりますと、「そんな死ぬなんてことを考えとったら生きていけますか」なんてことを素直に言う方がございますけれど、他人事ではないのです。私はそういう言葉を聞くと、だからこそ、「生きてあるという今の生が虚しいのではないだろうか」ということを思うのです。
 全く一息の中の出来事であるにもかかわらず、生の方の一面だけを見て死を見ないという生き方ですから、だからそれが充実した生を開くということはあり得ないのではないかということを思わせられるわけでございます。
【真宗佛事の回復 池田勇諦 響流書房より】



「生死一如」といわれましても、「生」という片方だけにしか目が向か(け)ない現状があります。
ここでもありますように、
「そんな死ぬなんてことを考えとったら生きていけますか!」というのが本音でしょう。しかしながら、「一息切れたら死」というギリギリのところを生きているのも事実です。この文章を読んでいまして
「人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」と、ご教示くだされた蓮如上人のお言葉がより一層重みを増しました。
このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か、非常に大事になってきます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏