手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

津国郡家の主計(つのくにぐんけのかずえ)

津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。
蓮如上人御一代記聞書(62)】
※津国郡家の主計:摂津国島上郡郡家村(現在の大阪府高槻市)の妙円寺の開基


【訳】
摂津国郡家という村に主計(かずえ)という人がいました。しばらくもやむことなく絶えず念仏を称えているので、髭を剃るとき、口の辺を切らないことはなかったのです。それは髭を剃っていることを忘れて念仏を称えているからでした。「世の中の人は、意図して口を動かさないと、少しの間も念仏も称えられないのであろうか。まことに心許ないことである」といわれたそうです。


【解説】
 主計という人は、つねに念仏を称えていた篤信者であったと思われます。この条はこの主計という人の常念仏の様子をあげて、当流(浄土真宗)の憶念称名の相(すがた)を述べているのです。
 浄土真宗では、声を張り上げて念仏を称えなければならないというのではありません。信心をえた人の念仏は、他力の御催しのままに称えているのであって、称えなければならないという思いがなくてもおのずから口に出る念仏なのです。仏恩の深さはつねに心に念じて忘れてはなりませんが、信心をえた人は、そのありがたさのあまりに称えられる念仏が、行住坐臥、いかなる時にも絶えることなく出てくるのです。主計という人が「人は口はたらかねば、念仏もすこしの間も申されぬか」と不審を語られたのは、他力大行の念仏を申していた主計にとって、他の人たちがとくに意図して口をはたらかさないと念仏が称えられないことが不審であったからです。髭を剃っていることも忘れて念仏を申されていた姿に他力の念仏の真髄をみるような思いがします。
【現代訳 蓮如上人御一代記聞書 瓜生津隆真 大蔵出版 P109、P110より】



おのずから口に出る念仏(南無阿弥陀仏)がこぼれ出たらしめたものです。
阿弥陀さまに対する報恩感謝のお念仏なのです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏