手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

称名念仏

 「無行不成」とは、行として成ぜざるはなし、つまり凡夫のなす往生浄土の行を、すべて阿弥陀仏が代わって成就されたということ。それが実は他力回向の名号であり、われわれの口に称えられる称名念仏なのだというのです。
 ここから蓮如は「憶念称名積みありて」という覚如のことばをもってきて、称名つまり南無阿弥陀仏はいそいそと称えるものですよといいます。南無阿弥陀仏とは、「信心を得たうえは、おのずとうれしくて、いそいそと申す念仏なり」のことだというのです。だから「信心を得たうえは」というのですから、信心をいただいた人は、お風呂に入っていようが、寝るときであろうが、お手洗いにいても、食事をいただいているときだろうが、いそいそと称えさせていただく、それが信の上の念仏です。だから周りの人たちのことを気にして称えるものではありません。
 蓮如がわれわれの生活は念仏生活であるといったのには、根拠があるのです。それは、親鸞が「信心為本」、つまり「信心をもって本とす」といわれた根拠でもあります。信心をいただいた人はこういうすばらしい、いそいそと生活をさせていただくことができる。念仏もいそいそと称えさせていただくことができる。私が散歩に行くのも旅行に行くのも、レストランに食べに行くのも、私のいそいそと生活するすがたである。それは「南無阿弥陀仏」の心を心とさせていただいている、つまり信心をいただいておるからこそ、私の全生活がみないそいそと営まれていくのである、と。こういうことを蓮如は述べておりますが、その根拠がちゃんとあります。ということは、蓮如は若いときから親鸞覚如の聖教を筆写し、よくよく血となし肉となしていたからです。
蓮如 その教えと生き方 早島鏡正 響流選書より】



南無阿弥陀仏はいそいそと称えるものです」
⇒そういう身になりたいものですね。
いつでも・どこでも・わたしが、南無阿弥陀仏
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏