手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

理性や知性ではとどかない領域

念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
歎異抄 第十条)

(本願他力の念仏においては、自力のはからいがまじらないことを根本の法義とします。なぜなら、念仏ははからいを超えており、たたえ尽くすことも、説き尽すことも、心で思いはかることもできないからですと、聖人は仰せになりました。)


 「義」は「自分のはからい」のことを意味しますから、「無義」とは「自分のはからいがない」ことです。親鸞の手紙に、「義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり」(『親鸞聖人御消息集』)とあります。「はからい」とは分別のことです。もっと言えば、自分の都合にもとづいた判断や理屈のことです。そういった理屈はないのが他力念仏の理屈というわけです。
 法然には私たちの賢(さが)しらな理性や知性への懐疑がありました。また、親鸞は自分のはからいがどれほど虚妄であるかを痛感していました。他力の仏道では、ここが問題になるのです。
 でも、「理屈を言わずに信じろ」という話ではないのです。理性や知性ではとどかない領域がある。その最後の一線のところで、「はからいを捨てる」というジャンプをしなければならない。そうしなければ見えない景色があるのだ、ということでしょう。仏の導きは、とても私たちの理性や知性では言語化も説明もしきれない。虚妄の存在が、真実を完全に表現できるはずもありません。それが 「不可称不可説不可思議」の意味となります。はからいを基盤としている限り、他力の念仏・信心とはならない。
NHK 100分de名著 歎異抄 釈 徹宗 NHKテキスト10月 P45〜P47より抜粋】



仏の導きは、私のはからいを超えています。
ですので、私のモノサシで、あれやこれやと推し測っても推し測れるものではありません。阿弥陀さまにおまかせ、あるのみです。
今日も 理屈なしに 南無阿弥陀仏