手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

思わんようになる

 浄土真宗は「そんな旨い事あるかい」「そんな馬鹿な事あるかい」と言うて、禅宗の人なんか言うとるわ。「『行』も積まず、『願』も起さず、『善』い事も一寸(ちょっと)もせず、三毒の煩悩、八万四千の業を煮やして居りながら、一編に『閉眼絶息の夕べには、大般涅槃を超証す』と言うて、直ぐに仏に成ると言う、そんな『旨い』事があるかい」と言うわ。是は無理じゃろ。聖道自力の人から見たら、「そんな旨い、棚から牡丹餅みたいな事あるかい」と言う取る。「そんな事あるかい」「そりゃ無理じゃ」「そんな道理は無いわい」とこう言うのが、まあ普通やな。
 けども、如来様から見たら、喚び声(南無阿弥陀仏)の中には、智慧も、慈悲も、智慧の力も、慈悲の力も、誓願の力も何もかも込めて、喚んで下さって居る。この「まこと」の力は、仏のまことの力、仏の誓願力、仏の真実心によって凡夫が仏に成れんと言う事があるかいと、こう言うのや。是は何が無理かい。何が棚から牡丹餅かい。そう言う見方をするのが自力やな。自力の心を持っていては、お他力と言う事が分からん。他力と言うものは仏様にならんと本当には分からんのやでえ。この世の中で」、自力や他力や言うたって分からへんわい。分かるもんかい。仏様に成って阿弥陀様と同体の悟りを開いて見たら「捨てて置いてくれと言われたとて、捨てて置かれぬ親心」と言うものが、仏自心がボォーッと、自分で出す事が出来るから、その時に分かるわい。その力で以って、力一つで以って凡夫を助けると言う事が分かるわな。まあ、凡夫で迷うとる間は分からんわい。「そんな事あるかい」と、心の底ではそう思う取るやろうな。皆、口には出さへんけど。「お他力」「お他力や」と口では「上手い」こと言う取るけど、心の底では、「見た事も、信じた事も、善い事をした事も無い。こんな私みたいな者が仏様の本願力とやらで以って仏に成るって、そんな馬鹿な事があるかい」と心の中では思う取るやろ、思う取らんと言うても、思う取るに違いないんじゃ。
 其れやったら「仏様の自然(じねん)」「法の自然(じねん)」「願力の自然(じねん)」と言う事には成らんのやでえ。「思う取らん」と言うても、思う取る。「思わん」様に成ったら「不思議やなあ!」と言うのや。
自然法爾章 稲垣瑞劔 師講述 昭和35年2月21日 正蓮寺(彦根市)より】



自然法爾(じねんほうに)
 仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という四字熟語ができた。
 浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号した。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔(まっとうしょう)』)と説いている。
【生活の中の仏教用語より】
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000ro3.html



「不思議やなあ!」というフレーズがでてきたらしめたものです(笑)
称えるお念仏(南無阿弥陀仏)は報恩感謝となります。阿弥陀さまと真に心が通じ合ったということになります。迷いの世界からの脱却でもあります。
生きてよし 死んでよし。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏