手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏者の生き方

 阿弥陀如来の本願が、信心となって私の上に届いているということは、如来の智慧と慈悲が私を内側から導いてくださることを意味していました。信心の行者は、まずこうした尊い徳を頂戴しているものでした。しかし、その徳にふさわしい生き方をするどころか、煩悩に明け暮れる生活を送っている自分は、まことに恥ずかしいことであり、もうしわけないことであるという慚愧の心がおこってきます。
 今までは、ただ我欲の命ずるままに、自分に都合のよいことばかりを追求し、不幸は人に押しつけても自分だけは幸せになりたいと思って生きてきましたが、それは貪欲の煩悩であって、人を傷つけ、自分も傷ついていく元凶であったと知らされます。また自分に都合の悪いものを排除するのは当たり前で、気に入らないものに腹を立て、憎み呪って何が悪い、私に腹を立たせる人が悪いのだとばかり考えていましたが、それが瞋恚の煩悩であると気づかされます。こうした瞋恚の根源に、自己中心の想念があって、何事も自分本位に考え行動することは、愚痴(無明)の煩悩であって、それこそ諸悪の根源だったのだと、うなずくようになってきます。
 そのように自分を煩悩具足の凡夫であると認め、自己中心の想念に引きずられて起こすさまざまな悪を悪と認め、罪を罪と認めるようになったということは、いままで当たり前であったことが当たり前でなくなったのですから、大変な変化が起こっているわけです。いわば自分のなかに革命が起きているのです。
 仏陀の智慧と慈悲こそが真実であると知らされた念仏者は、愛欲と憎悪を超えた涅槃の浄土こそ私たちが目指さなければならない真実の領域であることを思い知らされます。もっとも、それを知らされながらも、自分の現実は、それに背いて愛憎の泥沼に足を取られそうになっている危ない足元を懺悔せざるにおれません。ただしかし、阿弥陀仏の本願を聞き、煩悩を超えた涅槃の浄土に向かって歩んでいくのだという生きる方向性を与えられていることのありがたさを思うとき、少しでも如来の御心にかなうような生き方をしなければならないという思いが湧いてきます。そこに煩悩の真っ直中にありながらも、たえず本願に呼び覚まされて、生きようとする新しい精神の秩序が与えられていることに想いを致さねばなりません。
【本願のこころ 梯 實圓 法蔵館 P159、P160より】



ここで述べられていますように、
「念仏者の生き方」に共感できる身になりたいものですね。
煩悩の真っ直中にありながらも、たえず本願に呼び覚まされて生かされていることに気付かされる、ことは大変有難いことです。
すべて、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきのなせる業(わざ)です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



『御二河白道之柵』 棟方志功 作 ★再掲載★
福光時代、最後の作品(昭和26年11月) 善興寺:富山県高岡市

棟方志功は昭和20年から戦時疎開のため富山県現南砺市に移住して昭和29年まで在住。
「NHKカルチャーラジオ 文学の世界『歎異抄』と現代 (NHKシリーズ) 表紙より」