手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分本位

「七仏通誡偈」には
 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
(もろもろの悪を作〔な〕すことなかれ、すべての善を奉行せよ、みずからその意を浄〔きよ〕くす これ諸仏の教〔きょう〕なり)と示される。このような考え方の基礎となっているのは、「善因楽果・悪因苦果」といわれるような、みずからの善業(福)を因として好ましい結果(楽果)をえて、みずからの悪業(罪)を因として好ましくない結果(苦果)をえるという因果の道理である。この因果を信じる心を「信罪福心(罪・福を信じる心)という。
 しかし、阿弥陀仏がすでに成就した本願の法は、善悪、賢愚をえらばず救うという我々にとっては不可思議なる救済法である。その不可思議の本願に対して、衆生がみずからの善悪、賢愚といった価値判断を持ち込み、念仏によって廃悪諸善して、救われるか否かを「思議」することは、たよりにならない自分をたよりにし、本当にたよりにするべき如来の救いを拒絶しているのであって、如来の本願を疑っていることに他ならない。よって、この信罪福心を不可思議の本願に向けた場合は「疑心」、あるいは「(衆生の)はからい」といわれ、自力の信心として否定されるのである。
親鸞聖人の教え  勧学寮編 P235,P236より】



自分の世界に閉じこもっていてもなんの進展もありません。
自分大好き人間は、
宝の山に入っておりながら、宝物には全く目もくれないような人のことをいうのでしょう。
肝心の阿弥陀さまは何処にいったのでしょうか。
「わたしのはからい」曲者です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏